戦国時代59 東周慎靚王(二) 蘇秦の死 前317年

今回は東周慎靚王四年です。
 
慎靚王四年
317年 甲辰
 
[] 秦が韓を脩魚で破り、八万級を斬首しました。濁沢で韓将(または「鯁」)と申差が捕えられました。
諸侯は八万人もが犠牲になった敗報を聞いて震撼しました。
 
以上は『資治通鑑』と『史記韓世家』の記述です。『史記秦本紀』の内容が異なることは前年に書きました。
 
『趙世家』では本年に「趙が韓魏と共に秦を攻撃したが、秦が趙を破って八万級を斬首した」としています。
 
[] 『史記田敬仲完世家』によると、斉と宋が魏を攻め、観沢で破りました。
 
観沢の戦いも『世家』によって差があり、『魏世家』は「斉が魏を破って観津(観沢ではありません)を取った」としており、『趙世家』には「斉が趙を破って観沢を取った」とあります。
『魏世家』の注(正義)は、「観津は本来、趙の邑だったが、この時は魏に属した」と解説しています。
『六国年表』には「斉が観沢で魏趙を破る」とあります。
『楚世家』には「斉湣王が趙魏連合軍を破り、秦も韓を破って斉と長を争った」と書いています。
 
これらの内容をまとめると、秦が韓に大勝した頃、斉・宋連合軍も趙・魏連合軍を破ったようです。
 
『韓世家』の注(正義)は秦が韓将を捕らえた場所である「濁沢」を「観沢」の誤りとしていますが、「観沢」は斉・宋が趙・魏を破った場所であり、「濁沢の戦い」とは別ではないかと思われます。
 
[] 秦に敗れた韓の様子を『史記・韓世家』からです。
韓の相国公仲(名は侈)が韓王に言いました「他の国は頼りになりません。秦が楚を討とうとして久しくなるので、王は張儀を通じて秦と和を結び、名都(名城)を一つ贈るべきです。併せて甲兵を準備し、秦と共に南の楚を攻撃すれば、一を二に変える計となります。」
この部分の原文は「一易二之計」です。注(索隠)によると、一は「名都(名城)」を指し、二は「秦に韓を攻撃させないこと」と「秦と共に楚を攻めること(楚から利を得ること)」を意味するようです。
韓王は「善し」と言って同意し、公仲を西の秦に向かわせました。
 
これを聞いた楚王は恐れて陳軫を召しました。
陳軫が言いました「秦が楚を攻撃しようとして久しくなります。しかも最近、韓が名都を譲って甲兵の準備もしました。秦と韓が共に楚を攻撃するのは、秦にとって祷祀(祈祷)してでも実現させたかったことです。今既にそれを得たのですから、楚国は必ず攻伐を受けます。王は臣の意見に従い、四境の警戒を強め、師を起こして韓を(秦の攻撃から)救うと宣言するべきです。戦車を道路に満たし、信臣(使者)を派遣し、多数の車を使者に従わせ、厚く幣(賄賂)を贈れば、韓は王が自分(韓)を救うつもりだと信じるでしょう。たとえ韓王が我々を信じなくても、韓の人々は王を徳とするので(楚王に恩を感じるので)、秦のために雁行(進軍)してくることはなくなります。秦韓が不和なら、その兵が至ったとしても楚の大病(危難)にはなりません。もし韓が我が国の言を聞いて秦との和を絶つようなら、秦は必ず大怒し、韓を強く怨むようになります。また、韓は南の楚と結んだことによって秦を軽視します。秦を軽視すれば秦に対して不敬になります。これが秦韓の兵を利用して楚国の患を除く策です。
楚王は「善し」と言って陳軫の策を実行しました。四境の警戒を厳しくして韓救援を宣言します。戦車が道を満たし、信臣が多数の車を従えて韓に向かいました。
楚の使者が厚い幣物を贈って韓王に楚王の言葉を伝えました「不穀(国君の自称)の国(楚)は小さいものですが、全ての財力を動員しました。大国(韓)が秦に対して志をほしいままにするのなら(秦と思う存分戦うのなら)、不穀は楚国を挙げて韓に殉じます(命を懸けて韓を援けます)
大喜びした韓王は秦に向かっていた公仲を帰国させました。
公仲が言いました「いけません。実際に我が国を攻撃しようとしているのは秦です。虚名によって我が国を救うと言っているのは楚です。王は楚の虚名に頼って強秦の敵(実在する相手)と関係を絶つのですか。王は間違いなく天下の笑い者になります。そもそも、楚と韓は兄弟の国ではなく、以前から秦討伐を約束していたわけでもありません。楚が攻撃されそうになったから、兵を発して韓を救うと言い出したのです。これは陳軫の謀です。しかも王は既に人を送って秦に(協力して楚を攻撃することを)伝えてしまいました。今になって実行しなければ、秦を騙したことになります。強秦を軽んじて騙し、楚の謀臣を信用したら、王は必ず後悔します。
しかし韓王は諫言を聞かず、秦との関係を絶ちました。
怒った秦は甲兵を増やして韓を攻めました。両国が対戦しましたが、楚は韓を援けませんでした。
 
[] 斉の大夫が蘇秦と寵を争い、人を送って蘇秦を刺殺しました。
 
史記蘇秦列伝(巻六十九)』は死ぬ間際の蘇秦についてこう書いています。
斉の多くの大夫が燕から来た蘇秦と寵を争いました。ある大夫が刺客を使って蘇秦を襲います。蘇秦は重傷を負いましたが何とか逃走しました。
斉王が犯人を捜しましたが、捕まえることができませんでした。蘇秦は傷が治らず、ついに命を落とします。死ぬ前に斉王にこう言いました「臣が死んだら車裂の刑に処して市に晒し、『蘇秦は燕のために斉で乱を成した』と発表してください。そうすれば賊を得ることができます。」
斉王がその通りにすると、蘇秦を暗殺した者が名乗り出ました。賞を与えられると思ったからです。
斉王は犯人を処刑しました。
 
[] 張儀が魏襄王に言いました蘇秦が死んだため、張儀の活動が活発になります。東周顕王三十六年・前333年参照)「梁(魏)の地は四方が千里にも及ばず、卒()も三十万を越えません。土地は四面とも平らで、名山大川の守りもありません。卒は楚(南)、韓(西)、斉()、趙()との境を守っていますが、亭や障(防衛の要所。亭は街路に設けられた拠点。障は要塞)を守る者は十万に満ちません。このような状況なので、梁の地は各国が狙う戦場となっています。諸侯は約従(合従)のために洹水の上で盟を結び、兄弟のように互いに守りを堅くしました。しかし今は、父母を同じくする兄弟でも銭財を争って殺傷しています。各国の間においては、反覆(言動が一定ではないこと。裏切りが多いこと)が多い蘇秦が残した謀に頼ろうとしていますが、それがうまくいくはずがないのは明らかです。大王が秦に仕えなかったら、秦は兵を送って河外を攻め、巻、衍、酸棗を席巻してから衛を襲い、陽晋を取るでしょう。その時、趙は南下できず、梁(魏)は北上できず、南北の道が絶たれます。従道(南北に通じる縦の道。または合従の道)が絶たれたら、大王の国が危難から逃れたいと思っても逃れられなくなります。大王は慎重に計議を定めてください。また、臣の骸骨(引退)をお許しください。」
恐れた魏王は合従を裏切って秦に従うことにしました。張儀を通じて秦に和を請います。
張儀は秦に帰国してから改めて相に任命されました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。張儀が秦に帰った年は『史記』の中でも一定ではありません。『魏世家』は東周慎靚王二年(前319年)の事としており(既述)、『張儀列伝(巻七十)』の犀首の項でも五国連合軍が秦を攻める前に張儀が秦に帰ったとしています(東周顕王四十六年323年参照)
しかし『秦本紀』『六国年表』では本年(東周慎靚王四年317年)に秦に帰ったとしており、『張儀列伝』の本文も秦が五国連合軍を敗ってから秦に帰ったとしています。
 
[] 魯景公が在位二十九年で死に、子の平公(または「叔」)が立ちました。
史記魯周公世家』には「当時、六国が皆王を称した」とあります。
 
 
 
次回に続きます。