戦国時代60 東周慎靚王(三) 蜀国 前316年(1)
今回は東周慎靚王五年です。二回に分けます。
慎靚王五年
前316年 乙巳
[一] この頃、巴国と蜀国が争っていました。
巴と蜀に関しては『華陽国志・蜀志(巻三)』に記述があるので、以下、一部抜粋し、注釈を加えて簡単に紹介します。
蜀の地は、東は巴、南は越(越嶲。南中とよばれる地域で、現在の四川省西南部から貴州省、雲南省一帯を指します。句践の越ではありません)に接し、北は秦と地を分け、西は峨嶓(山名)を覆います。天府の地(土地が肥えて物資が豊富な土地)と称され、かつては「華陽」ともよばれていました。
周代の蜀国は秦と巴に囲まれた夷狄の地だったため、周王を奉じていたものの春秋の盟会(諸侯の会)に参加することはできず、中原とは書軌(文字や馬車の車輪の幅。文化風俗)も異なりました。
周が衰退して秩序を失うと、蜀侯・蠶叢が王を名乗りました。『華陽国志』には蠶叢の目が「縦」だったとありますが(有蜀侯蠶叢其目縦)、理解困難です。四川省の三星堆遺跡から目が飛び出した仮面が発見されているので、「目縦」というのは目が飛び出していることを意味するともいわれています。
蠶叢は死んでから石棺・石椁(棺は内棺。椁は外棺)に埋葬されました。蜀の国人は蠶叢に帰心していたため、石棺・石椁を見ると「縦目人の冢」と称するようになりました。
蠶叢の次に王になったのは柏灌です。
その次の王は魚鳧といいます。魚鳧は湔山で狩りをした時に仙道を得たといいます。蜀人は魚鳧を想って祠を建てました。
後に杜宇という王が現れて民に農業を教えました。杜宇の号は杜主ともいいます。
当時、朱提(地名)に梁氏が住んでおり、娘の利(人名)が江源で遊んでいました。杜宇は梁氏の娘を気に入って妃にします。
その後、郫邑に遷って治所としました。あるいは瞿上を治所としました。
中原の七国が王を称すと杜宇は帝を称し、望帝と号して蒲卑に改名しました。帝を称したのは自分の功徳が諸王より優れていることを示すためです。
この時はちょうど春二月で、子鵑(ほととぎす)が鳴いていました。蜀人は子鵑の鳴き声を聞くと望帝を想って悲しむようになりました。
巴も蜀の教化を受けて農業に励みました。今(『華陽国志』が書かれた晋代)でも巴と蜀の民は農事を始める時、まず杜主君(杜宇)を祀っています。
叢帝は盧帝を生み、盧帝は秦を攻めて雍に至った時、保子帝を生みました。
保子帝は青衣を攻めて獠僰に勢力を拡げました(青衣と獠僰は部族名です)。
『蜀王本紀』(漢代の楊雄による書といわれていますが、原本は既に失われており、明代に再編されました)には、「鱉霊(『華陽国志』の「叢帝」)が即位して開明帝と号した。帝が盧保(『華陽国志』の「盧帝」。もしくは「盧帝」と「保子帝」)を生み、盧保も開明を号した。」「開明帝の後、五代で開明尚が現れ、帝号を去って王を称した」と書かれています。
『華陽国志』は王を名乗った開明を九世としているので『蜀王本紀』と世代が異なりますが、恐らく同一人物です。
当時、蜀には五丁力士(五人の力士)がおり、山を動かしたり万鈞(鈞は重さの単位)を持ち上げることができました。
開明王朝では王が死ぬ度に、力士が長さ三丈、重さ千鈞もある大石を立てて墓志(墓標)にしました。蜀には諡号の風習がなかったため、五色を主(神霊の名)とし、廟内に青帝、赤帝、黒帝、黄帝、白帝の神主(位牌)を置きました。
東周顕王の時代、蜀王は褒と漢の地を擁していました。
ある時、蜀王が谷で狩りをして秦恵王に遭遇しました。恵王は一笥(竹籠)の金(黄金)を蜀王に贈ります。蜀王は答礼として珍玩の物を恵王に贈りましたが、それらは土になってしまいました。
恵王が激怒すると群臣が祝賀してこう言いました「これは天が我が国に授けたのです。王は蜀の土地を得ることができるでしょう。」
喜んだ恵王は五頭の石牛を造り、その後ろに金を置いて「牛が金の糞をした」という噂を流しました。
また、同時に百人の士卒を養います。
蜀人は黄金の糞をする石牛の噂を聞いて秦に求めました。恵王は蜀に譲ることに同意します。蜀王は五丁力士を派遣して石牛を迎え入れました。
ところが石牛は金の糞を出しません。
蜀王は怒って石牛を秦に返し、秦人を嘲笑して「東方の牧犢児」と称しました。文明が遅れた牧牛の民という意味です。
それを聞いた秦人は笑ってこう言いました「我々は確かに牧犢だが、蜀を得ることになる。」
蜀王はこの美女を後宮に入れて妃にしましたが、女は水土が合わないため去ろうとしました。王は女を引き留め、『東平之歌』を作って女を歓ばせます。
しかし女は暫くして死んでしまいました。
深く悲しんだ蜀王は五丁力士を武都に派遣し、土を積んで妃の冢(塚)を造りました。その地は数畆に及び、高さは七丈もあります。上には石鏡が置かれました。
東周顕王三十二年、秦恵王が数回にわたって美女を蜀王に贈ったため、感謝した蜀王は使者を送って秦を朝見しました。
秦恵王は蜀王の好色を知り、五女(五人の女。恐らく秦王の娘か宗族)を蜀に嫁がせることにしました。蜀は五丁力士を送って五女を迎え入れます。
一行が梓潼に来た時、一匹の大蛇が穴に入るのを見ました。一人の力士が蛇の尾をつかんで引きずり出そうとしましたが、力が足りません。そこで五人が協力して大声を挙げながら蛇を引っ張りました。すると山が崩れて五人の力士と秦の五女を押しつぶしてしまいました。崩れた山は五つの嶺に分かれ、山頂には平石が現れます。
苴侯は巴王と関係を結びました。
ところが後に巴国が蜀国と対立しました。蜀王は怒って巴と関係が深い苴侯を攻撃します。苴侯は巴に出奔し、巴国と苴侯は秦に援けを求めました。
この事件がきっかけで、秦が蜀を攻撃することになります。
次回に続きます。