戦国時代61 東周慎靚王(四) 秦の巴蜀遠征 前316年(2)

今回は東周慎靚王五年の続きです。
前回は『華陽国志』を中心に蜀国について紹介しました。今回は秦が巴蜀を遠征します。
 
[(続き)] 以下、『資治通鑑』からです。
巴と蜀が互いに攻撃しあい、それぞれが秦に訴えました。
秦恵王は蜀を討伐しようとしましたが、道が険阻なうえ、韓の襲撃を恐れたためなかなか決断できません。
そこで、司馬錯(『資治通鑑』胡三省注によると、司馬錯は重黎の子孫で、西周宣王時代に程伯休父が司馬氏を名乗りました)が蜀討伐を勧めましたが、張儀が反対して言いました「先に韓を討つべきです。」
恵王が詳しく聞くと、張儀はこう言いました「秦はまず魏楚と親善し、兵を三川(伊水、洛水、河水)から下し、新城、宜陽を取って東西二周の郊に臨み、九鼎(夏周の三代に伝わる鼎。天子の象徴)と図籍(天下の版図)を手中に置き、天子を制して天下に号令するべきです(挾天子以令於天下)。そうすれば天下で秦に逆らう者はいなくなります。これこそが王者の業です。名を争う者は朝(朝廷。天子がいる場所)に行き、利を争う者は市に行くといいます。三川と周室は天下の朝市です。王は朝市を争わず、戎翟の争いに介入しようとしていますが、これでは王業が遠のくことになります。」
司馬錯が言いました「それは違います。富国を欲する者はその地を拡大することに務め、強兵を欲する者はその民を富ませることに務め、王を欲する者はその徳を拡めることに務めるといいます。この三者を備えることができれば王業を成すことができるのです。今、王は地が狭く民も少ないので、まずは容易な事から始めるべきです。蜀は西僻の国ですが戎翟の長です。しかしその政治は桀紂のように乱れています。秦が蜀を攻めるのは、豺狼が羊の群れを逐うようなもので、その地を得て国を広くし、その財を得て民を富ませ、多くの兵を損なうことなく(戎翟を)服すことができます。一国を占領しても天下が秦の暴を責めることなく、四海(天下。または「西海」の誤りで西方の意味)の利を取り尽くしても天下がそれを貪と見なすことはありません。我が国は一挙によって名と実を得て、しかも暴を禁じて乱を収めたという名声をもたらすことができます。もし先に韓を攻めて天子を制したら、得るのは悪名となり、利があるとは限りません。不義の名をこうむったうえに天下が望んでいない場所を攻めたら危(危難。危険)を招きます。臣が(周を攻撃してはならない)理由を述べましょう。周は天下の宗室であり、斉と韓は周の與国(近隣親睦の国)です。周が九鼎を失い、韓が三川を失ったら、二国(周・韓)は力を合わせて共謀し、斉・趙に協力を求め、楚・魏とも旧怨を解いて和解し、あるいは鼎を楚に譲り、あるいは地を魏に割いて秦に対抗するでしょう。王にはそれを止めることができません。これが臣が言う危です。先に蜀を討つことこそ上策です。」
恵王は司馬錯の計に従うことにしました。
 
秦は兵を起こして蜀を攻めました。
十月、蜀の地を占領し、蜀王の号を侯に落とします。陳荘が蜀の相になりました。
蜀が秦に属すようになってから、秦はますます国力を増して諸侯を軽んじるようになりました。
 
尚、『史記秦本紀』も「司馬錯が蜀を攻めて滅ぼす」と書いていますが、注(索隠)は『蜀王本紀』を引用して「張儀が蜀を攻めた。蜀王は開戦したが勝てず、張儀に滅ぼされた」という説も載せています。
 
『華陽国志』の記述は『資治通鑑』と少し異なります。以下、再び『華陽国志蜀志』からです。
巴が秦に援けを求めた時、秦恵王は楚討伐を考えていました。群臣もこう言いました「蜀は西僻の国(西方の辺鄙な国)であり、戎狄に囲まれています。先に楚を討つべきです。」
しかし司馬錯や中尉田真黄がこう言いました「蜀では桀紂の乱が起きています。また、その国は富饒なので、布帛金銀を得れば軍用に使うことができます。巴蜀の地は)(川)が楚に通じているので、巴の勁卒(強兵)を擁せば大舶船を浮かべて東の楚に向かい、楚地を得ることもできます。蜀を得れば楚を得ることができ、楚を亡せば天下を併せることができます。
恵王は「善し」と言って蜀討伐を決意しました。
 
東周慎王(慎靚王)五年秋、秦の大夫・張儀司馬錯および都尉墨等が石牛道(秦から石牛を運ぶために造った道)を通って蜀を攻撃しました。
蜀王は自ら葭萌で抵抗しましたが、敗れて遁走し、武陽で秦軍に殺されました(『資治通鑑』では殺されていません。『史記張儀列伝』も「蜀王を侯に落として陳荘を蜀の相にした」としており、『資治通鑑』はこの記述に従っています)
蜀の相や傅、太子は逢郷に退き、白鹿山で死にました。こうして開明開明王朝)が滅亡します。蜀王は十二世続きました。
冬十月、蜀が平定されました。その後、司馬錯等が苴(葭萌)と巴も占領しました。
 
資治通鑑』胡三省注には、秦が蜀を平定してから、巴と苴も滅ぼして巴蜀の二郡を置いたとあります。
しかし『華陽国志』には二年後(東周赧王元年314年)に「秦恵王が子の通国(『史記秦本紀』では公子通)を蜀侯に封じ、陳荘を相にした。巴に郡を置いた。張若を蜀国守に任命した。戎伯(諸部族の長)がまだ強盛だったため、一万家の秦民を蜀に遷して秦の統治力を充実させた」とあります。
史記秦本紀』も二年後に「公子通を蜀に封じた」としているので、郡を置いたのは巴だけで、蜀は公子の封国になったようです。
 
尚、『史記張儀列伝』は、五国連合軍が秦を攻めた戦争(東周慎靚王三年318年)の前に蜀征服を書いていますが、恐らく誤りです。
 
[] 蘇秦が死んでから、蘇秦の弟の蘇代と蘇厲が諸侯の間を遊説して顕貴な地位を得るようになりました。
蘇代と婚姻関係にある燕相子之は、燕の政権を得たいと思っていました。
蘇代が使者として斉に行き、燕に帰国した時、燕王噲が問いました「斉王は覇者になることができるか?」
蘇代が「無理です」と答えたため、燕王がその理由を聞くと、蘇代は「その臣を信用していないからです」と言いました。
燕王は子之を信任するようになりました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記燕召公世家』の内容は若干異なります。
かつて蘇秦が燕にいた頃、蘇秦が燕相子之と婚姻関係を結んだため、蘇代も子之と交際を始めました。
蘇秦の死後、斉宣王が再び蘇代を用います。
後に蘇代が斉のために使者として燕に行きました。そこで燕王が問いました「斉王はどのような人物だ?」
蘇代が言いました「霸を称えることはできません。」
燕王がその理由を問うと、蘇代は「自分の臣を信じないからです」と答えました。燕王に子之を尊重させるための言葉です。
蘇代の言を信じた燕王は子之を信任しました。子之は蘇代に感謝して百金を贈り、自由に使わせました。
 
資治通鑑』に戻ります。
鹿毛寿(または「唐毛寿」「潘寿」「厝毛」)が燕王に言いました「人々は堯を賢者だと言っていますが、それは天下を譲ることができたからです。王が国を子之に譲れば、王は堯と名(名声)を同じくすることができます。」
 
鹿毛寿の言葉も『燕召公世家』は少し異なります。『燕召公世家』では、鹿毛寿はこう言っています「国を相子之に譲るべきです。人々が堯を賢者と称えているのは、天下を許由に譲ったからです。しかし許由がそれを受け入れなかったので、堯は天下を譲った美名を得ながら実際には天下を失いませんでした。王が国を子之に譲っても、子之がそれを受けるはずがありません。こうすれば王と堯の行動が等しくなります。」
燕王は鹿毛寿の言葉を信じて国政を子之に託しました。この後、子之が大権を握るようになります。
 
資治通鑑』に戻ります。以下の内容は『燕召公世家』とほぼ同じです。
またある人が言いました「禹は益を後継者に推挙しましたが、啓(禹の子)の人(臣下)を益の吏(官吏)にしました。禹は年老いてから、『啓には天下を任せられない』と言って益に譲りましたが、啓はすぐに党を結んで益を攻撃し、天下を奪いました。天下は禹をこう評しました。『名義上では天下を益に譲ったが、実際は啓に天下を取らせた(名義上は益を後継者にしたが、益の周り置いたのは啓の臣下だったため、結局、啓が天下を取ることになった)。』今、王は国を子之に委ねたと言っていますが、吏(官吏)は全て太子の人(臣下)です。これは名義上は子之に委ねながら実際は太子に政治を行わせているのと同じです。」
燕王は納得して印綬を子之に与え、三百石以上の官吏は子之が自分で任用することを許可しました。
 
こうして子之が南面(国君は南を向いて座ります)して王事を行うようになりました。燕王噲は既に年老いていたため、自ら政治を行うことはなく、臣下として子之の決断に従いました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が趙を攻めて中都と西陽を取りました。
『六国年表』にも「秦が趙の中都、西陽、安邑」を取るとあります。しかし『趙世家』は「秦が趙の西都と中陽を取る」としています。
 
[] 『史記趙世家』にはこの年、斉が燕を破ったとあります。
 
 
 
次回に続きます。