戦国時代62 東周慎靚王(五) 前315年

今回で東周慎靚王の時代が終わります。
 
慎靚王六年
315年 丙午
 
[] 東周慎靚王が死に、子の赧王(または「誕」)が立ちました。
史記索隠』によると、「赧」は「謚法」に記載されていないので諡号ではないようです。周が衰弱して権力を失ったため、「赧然慙愧(後悔して恥じ入ること)」したことから「赧」を号にしたとされます。諡号ではないため「王赧」と書かれることもあります。
赧王は周王朝最後の王になります。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、鄭侯(韓王)が韓辰を魏に送って晋陽と向を返還しました。
二月、魏が陽(晋陽)と向に築城し、陽を河雍に、向を高平に改名しました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、韓の太子蒼が質(人質)として秦に来ました。
また、秦が韓を攻めて石章を取り、趙の将(または「荘泥」。『六国年表』では「趙の将軍英」)を破り、義渠の二十五城を占領しました。
韓の太子が人質になったのは石章を取られてからの事かもしれません。
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、趙武霊王が韓から公子職を呼び戻し、燕王に立てました。楽池に命じて公子・職(燕王)を派遣します。
燕では翌年に内争が起きるので、この出来事は翌年の事かもしれません。
但し、『燕召公世家』には趙が公子職を燕王に立てたという事が書かれていません。『趙世家』の注(集解)は「燕の子之が死んでから、燕人は太子平を立てた。これを燕昭王という。『燕世家』に趙が公子職を送って燕王に立てた事が書かれていないのは、趙は燕の乱を聞いて遠地で公子職を燕王に立て、楽池に送らせたが、成功しなかったからだ」と解説しています(異説もあるので、翌年再述します)
 
[] 『古本竹書紀年』によると、この年、碧陽君の諸禦(嬪妃)が二龍を生みました。碧陽君がどこの国の誰を指すのかはわかりません。
 
 
 
次回から東周赧王の時代です。