戦国時代63 東周赧王(一) 西周の出来事

今回から東周赧王の時代です。
 
赧王
東周慎靚王が死んで子の延が立ちました。これを赧王といいます。
前回も書きましたが、『史記索隠』によると、「赧」は「謚法」に記載されておらず、諡号ではないようです。周が衰弱して権力を失ったため、「赧然慙愧(後悔して恥じ入ること)」したことから「赧」を号にしたとされます。諡号ではないため「王赧」と書かれることもあります。
また、『今本竹書紀年』では「隠王」としています。
赧王は周王朝最後の王になります。
 

東周考王の時代から周は東西に分かれて政治を行っていました(東周考王十五年・426)。『史記索隠』は「西周は河南、東周は鞏(地名)。王赧の権力は微弱で、西周と東周がそれぞれ一都を擁して分治した。」「西周の王城(地名)は河南にあり、東周の成周(地名)は洛陽の地である」と解説しています。
敬王春秋時代最後の王)から慎靚王に至るまで、周王は東周(成周)にいました。しかし王赧は都(拠点)西周(王城)に遷します。『史記正義』は「敬王が王城を出て東の成周に遷ってから(東周敬王四年・516年)十世で王赧の代に至り、王赧は成周から西の王城に遷った。西周武公がいたからである」としています。
 
史記周本紀』が西周と楚の関係について書いていますが、いつの事かはわかりません。
かつて西周武公西周の祖は桓公桓公の子は威公。威公の子は恵公。武公は恵公の長子)が太子を立てました。共太子といいます。しかし共太子は早逝してしまいました。
武公には他にも五人の庶子がいましたが跡継ぎが決まりません。
楚の司馬翦が楚王に言いました「(東周の)公子咎を援けて土地を与え、太子に立てるように求めるべきです。」
これを知った左成が司馬翦に忠告して言いました「いけません。もし周が太子を立てる要求を聞き入れなかったら、公(司馬翦)の計画は失敗に終わり、周との関係も疎遠になってしまいます。まずは周君が誰を後継者に立てたいかを探り、その情報を秘かに公に伝えさせてから(公がその情報を知ってから)、楚王に対して周へ土地を譲るように進言するべきです。」
司馬翦はこの忠告に従いました。
その結果、西周は司馬翦が推している公子咎を太子に立てました。
 
この出来事は『戦国策東周策』にも書かれていますが、恐らく西周の誤りです。宋代に編纂された『戦国策校注』は『西周策』に移しています。以下、『戦国策』からです。
周の共太子が死にました。周君(恐らく西周武公)には五人の庶子がいましたが、五人とも愛していたため後継者を決めていませんでした。
司馬翦が楚王(『戦国策校注』によると懐王)に進言しました「公子咎に土地を与え、太子に立てるように要求するべきです。」
これを聞いた左成が司馬翦に忠告しました「周君が反対したら公の計画が困難になり、周との関係も絶たれてしまいます。周君にこう言うべきです『誰を後継者に立てるつもりでしょうか?もし翦(私)に教えていただけるようなら、翦は楚王に対して周に土地を譲ることを進言します。』もしも公が太子(公子咎)を援けたいと思うのなら、人を送って(楚の)相国の御展子(御者。展が氏)夫は小官の名。空は人名)に『楚王は汝等に(周君の)太子を援けさせようとしている』と伝えるべきです。二人は健士(強悍で能力がある士)なので、相国は国内にいる彼等を煩わしく思っています。」
司馬翦は左成の言に従いました。
楚の相国は展子と空を遠ざけたいと思っていたため、司馬翦が流した情報を聞くと、二人を周に送って公子咎を援けさせました。
それを見計らって司馬翦が周に行きました。
その結果、楚の援助を受けている公子咎が太子に立てられました。
 
 
 
次回に続きます。