戦国時代66 東周赧王(四) 楚の大敗 前312年

今回は東周赧王三年です。
 
赧王三年
312年 己酉
 
[] 春、秦と楚が丹陽(漢中)で戦いました。秦の将は庶長(『史記樗里子伝(巻七十一)』では「魏章」)、楚の将は屈(または「屈丐」)です(前年参照)
以下、『史記楚世家』『資治通鑑』からです。
丹陽の戦いで楚軍が大敗し、甲士八万が斬られ、楚将、裨将軍逢侯丑や列侯、執圭(どちらも楚の爵位七十余人が捕虜になりました。
 
『韓世家』によると、韓も秦に協力して楚を攻めました。『六国年表』には「韓が秦を援けて楚を攻め、景座(または「景痤」。人名)を包囲した」とあります。
『古本竹書紀年』は「楚の景翠(景痤)が雍氏(韓地)を包囲した。韓宣王が死んだ(後述)。秦が韓を援けて共に楚の屈丐を破った」としています。
 
丹陽の戦いの後、『資治通鑑』は「こうして秦が漢中郡を占領した」と書いています。
史記・秦本紀』では「丹陽で勝った秦は楚の漢中も攻撃して六百里の土地を奪い、漢中郡を置いた」としています。
 
激怒した楚懐王は国内の兵を総動員して再び秦を襲いました。
しかし秦領の藍田まで進攻した楚軍は秦軍と戦って再び大敗しました。
韓と魏も楚の難を知って南下し、鄧(楚領。春秋時代の鄧国)に至りました。
魏の動きを知った楚は秦から兵を還し、二城を秦に譲って和を請いました。
 
史記秦本紀』によると、秦が漢中を取ってから、楚が韓の雍氏を包囲したため、秦が庶長(樗里疾)を送って韓を援けさせ、更に東進して斉を攻めました。
また、到満(または「到蒲」。秦将の姓名)が魏を援けて燕を攻めました。
 
『古本竹書紀年』は上述の通り楚が韓の雍氏を包囲したため、秦が韓を援けて屈丐を破ったとしていますが、『史記秦本紀』では秦が楚の屈丐を丹陽で破って漢中を取ってから、楚が雍氏を包囲したことになっています。
 
また、『古本竹書紀年』には「斉と宋が魏の煑棗を包囲した」とありますが、『魏世家』には「魏が斉を攻め、秦と共に燕を攻めた」とあり、『六国年表』には「魏が斉を攻めて声子を濮で捕えた」と書かれています。
 
更に『史記田敬仲完世家』を見ると、「斉が魏を攻め、楚が韓の雍氏を包囲し、秦が屈丐(楚の屈を破った」としており、『古本竹書紀年』にある「煑棗」という地名もこの後登場します。『田敬仲完世家』は『古本竹書紀年』に近いようです。
 
それぞれの戦いの前後関係がはっきりしませんが、秦は魏韓と協力し、楚は斉・宋燕と協力していたようです。
史記趙世家』には、「趙の趙何が魏を攻めた」という記述もあるので、趙も楚・宋・燕の陣営に与していたのかもしれません。
 
以下、『田敬仲完世家』からです。理解が困難なので大きく意訳します。
蘇代が楚の田軫(陳軫)に言いました「臣は公(田軫)に謁見を求めます(話したいことがあります)。今から話すことは万全の策であり、楚国も公に利をもたらします。成功すれば福となり、成功しなくても福となるでしょう。
先頃、臣が門に立っていると、ある客が魏王と韓馮(韓の公仲侈)張儀の会話について話していました。魏王が二人にこう言ったそうです『煑棗(魏の地名。上述。斉・宋が攻撃しています)はもうすぐ陥落し、斉は更に兵を進めるだろう。子(汝等。韓と秦)が寡人を援けるのならまだ何とかなるかもしれないが、援けないようなら寡人には成す術がない。』これは婉曲した言葉であり、実際は『秦張儀と韓(韓馮)が兵を東に向けなければ(魏を援けて斉と戦わなければ)、旬余(十日余)で魏氏は戦略を変え、韓だけが秦に従うことになる(魏は韓秦との同盟を破棄して斉楚と和し、韓だけが秦に従うようになる)』という意味です。そうすることができれば(秦と韓が魏を援けないようにしむけることができれば)秦は(魏を失ったので)張儀を廃し、(秦も)楚に仕えることになるので、公の事を成就できます(田軫の功績となります)。」
田軫が「どうすれば(秦と韓を)東に向かわせないようにできるか(魏を援けさせない方法はあるか)?」と問うと、蘇代はこう言いました「韓馮が魏を援ける時は、韓王に『馮(私)は魏のために働きます』とは言わず、必ずこう進言します『馮は秦韓の兵を東に向けて斉宋の兵を退けてから(魏を援けてから)、三国(秦魏)の兵を率いて屈丐の敗戦によって疲弊した楚を撃ち、南の地を割譲させるつもりです。こうすれば故地を全て取り返すことができます(出兵の理由は魏を援けるためではなく、楚の地を得るためです)。』
張儀が魏を援ける時にも、秦王に『儀()は魏のために働きます』とは言わず、必ずこう言います『儀は秦韓の兵と共に東の斉宋を退けてから、三国の兵を率いて屈丐の敗戦によって疲弊した楚を撃ち、南の地を割譲させるつもりです。こうすれば亡国(魏)を存続させるという名目で、実際には三川(韓と周の領土)を討って還ることができます(魏を援けるという名目で出兵して南の楚領を得れば、三川も支配下に置くことができます)。これこそ王業というものです。』
そこで、公(田軫)は楚王に進言して(両国が兵を出す前に)韓氏に土地を割譲させてください。また、秦には(楚韓の)講和を監督させて、秦王にこう伝えてください『我が国から韓に領地を譲ることに同意してください。(秦が楚韓の講和を仲介すれば)(秦王)は三川に武威を張ることができ(周王室を制御できます)、韓氏も兵を用いずに楚の地を得ることができます(秦は楚韓の講和のおかげで三川に勢力を伸ばすことができ、韓は秦が監督する講和のおかげで楚から領土を得ることができます。韓が楚と講和したら、韓馮が出兵する理由がなくなるので、魏を援けることもできません)
もし韓馮が韓兵を東に向けたら(魏を援けたら)、公は秦王に対してこう言うべきです『秦が兵を用いず三川を得たら(秦のおかげで楚と韓が講和し、秦が三川に威を振るえば)、楚韓を攻めて魏に圧力をかけることができます。こうすれば魏氏が敢えて東を向くことはなくなり(秦を畏れて斉に近づくことがなくなり)、斉は孤立します。』(これを聞いた秦王は楚と韓を講和させるはずなので、韓馮が出兵する理由がなくなります)張儀が兵を東に向けたら秦王にこう言うべきです『秦も韓も領土を欲していますが、まだ兵を動かしていません(もしくは「既に兵を動員しています」)。声威が魏に伝わったら(秦が東に兵を動かしたことを魏が知ったら)、魏氏は(秦を警戒して)楚との関係を失わないようにするでしょう(秦が兵を東に向けたら、魏は逆に秦から離れてしまいます)(これを聞いた秦王は張儀に撤兵を命じるはずです)
魏氏が秦韓との関係を絶って斉楚に仕えようとしたら、楚王は魏との講和を願い、韓に領土を譲ることを拒否するはずです(その場合、韓は楚の領土を得ることができず、秦も三川を制御できません)。しかし公のおかげで秦と韓が兵を動かさずに領土を得ることができたら、公が両国に大徳(大恩)を施すことになります。秦韓の王が韓馮、張儀に強制されて東に兵を進め、魏を服従させる事と、公が左券(権利書。ここでは優位に立つ条件。兵を動かさずに領土を得させること)を常に握って秦韓を動かす事を較べたら、二国は公の計(魏を援ける兵は出さず、楚と韓を講和させて利益を得ること)に賛成し、張子がもたらす損失(出兵して魏を援けること)を嫌うはずです。」
 
『田敬仲完世家』はこの後どうなったのかを書いていません。
この部分は理解が難しいので漢文のまま(注釈含む)別の場所で改めて紹介します。
[] 燕人が協力して太子平を王位に即けました(東周赧王元年・前314年参照)。これを昭王といいます。
 
斉軍に国を蹂躙されてから即位した昭王は、自ら死者を弔い、孤(身寄りがない者)を慰問し、百姓と甘苦を共にしました。また、腰を低くして厚幣で賢者を招きました。
昭王が郭隗に言いました「斉は孤国難があった時の国君の自称)の国乱に乗じて燕を襲った。孤は燕が小さく力も少ないため、報復できないことをよく理解している。しかしもしも賢士を得て国事を共にし、先王の恥を雪ぐことができるとしたら、それは孤の願いである。先生が見て能力があると思う人材がいたら、自ら仕えに行こう。」
郭隗が言いました「昔、ある国の君が千金を涓人(宮内で掃除等をする身分が低い者)に与えて千里の馬を求めさせました。涓人は既に死んだ馬を見つけ、五百金で馬頭を買いました。涓人が戻ると国君が激怒しましたが、涓人はこう言いました『死んだ馬でも大金で買ったのです。生きた馬ならなおさらでしょう。馬はすぐにやって来ます。』果たして、一年も経たずに三頭の千里の馬を得ることができました。王が士を欲するのなら、まず隗(私)から始めてください。隗よりも賢才がある者が千里の距離も厭わず訪れるでしょう。」
昭王は郭隗のために宮殿を築いて師事しました。
やがて各地の賢士が燕に集まるようになりました。魏からは楽毅が、趙からは劇辛が燕に移ります。『資治通鑑』にはありませんが、『史記燕召公世家』は「鄒衍も斉から来た」としています。
昭王は楽毅を亜卿に任命して国政を任せました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、郭姓は周の虢公の子孫で、虢公は郭公ともよばれました。
劇姓は漢代の北海郡に劇県という場所があり、その地の人が県名を氏にしたようです。
 
[] 韓宣恵王が在位二十一年で死に、太子倉が立ちました。これを襄王といいます。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、韓の韓明が魏の襄丘を攻めました。
また、秦王(恵文王)が魏の蒲阪関(秦魏の国境)に来て魏王に会いました。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、この年四月、越王が公師隅を派遣して魏に乗舟始罔(「始罔」は恐らく船の名)、舟三百、箭(矢)五百万および犀角、象歯象牙を献上しました。
『今本』には「乗舟始罔」の記述がありません。
戦国時代は各地で水路の建設が行われたため、越と魏も長江、淮水、泗水、汴水を通してつながっていました。
 
当時の越は分裂して諸公族が王や君を名乗ってたため(東周顕王三十五年334年参照)、魏に使者を送った越王が誰かはわかりません。


[
] 『今本竹書紀年』はこの年五月に張儀が死んだと書いています。『古本』は二年後(東周赧王五年310年)、『資治通鑑』等は三年後(赧王六年309年)の事としています。

 
 
 
次回に続きます。