戦国時代68 東周赧王(六) 張儀の連衡 前311年(2)

今回は東周赧王四年の続きです。張儀の連衡について書いています。
 
[(続き)] 以下、『資治通鑑』からです。
楚を去った張儀は韓に行きました。
張儀が韓王に言いました「韓は地が険しく山が多いので、生産できる五穀は菽(豆類)でなければ麦(雑麦)しかありません。国には二年分の食糧の蓄えもなく、士卒も二十万を越えません。一方、秦には百余万の被甲(甲兵)がいます。また、山東の士は甲冑をつけなければ戦えませんが、秦人は甲を棄てて裸足で敵に臨んでも、左手で人頭を持って右手で生虜(捕虜)を得ることができます。秦が孟賁、烏獲のような士(『資治通鑑』胡三省注によると、どちらも古代の勇士です。但し秦武王の時代に力士・烏獲の名が見られます。東周赧王八年307年参照)を使って服従しない弱国を討伐するのは、千鈞の重さがある物で鳥の卵を打つようなものなので、万に一つの幸(幸運)もあり得ません。大王が秦に仕えなかったら、秦は甲兵を東下させて宜陽を占拠し、成皋を塞ぎます。そうなったら王の国は分裂し、鴻台の宮も桑林の苑も王のものではなくなってしまいます。大王のために計るとしたら、秦に仕えて楚を攻撃し、禍を転じて秦を喜ばせるべきです。これ以上の計はありません。」
韓王は同意しました。
 
張儀が秦に帰って報告すると、秦王は張儀に六邑を封じました。張儀は武信君と号します。
 
秦王が張儀を東の斉に派遣しました。
張儀が斉王に言いました「従人(合従の提唱者)は大王にこう言うでしょう『斉は三晋に守られており、地は広く民は多く、兵は強く士は勇敢なので、百の秦があっても斉に対して何もできません。』大王はこの意見を賢とし、実を計ろうとしません。今、秦は楚と婚姻関係を結んで昆弟(兄弟)の国になりました。韓は宜陽を秦に献上し、梁(魏)も河外(『資治通鑑』胡三省注によると、秦の河外なので河東)を譲りました。趙王も秦に入朝し、河間を割いて秦に仕えることにしました。大王が秦に仕えなかったら、秦は韓梁に斉の南地(南境)を攻撃させ、趙兵を総動員して清河を渡らせ、博関に迫るでしょう。その結果、臨菑も即墨も王のものではなくなります。国が一度攻撃を受けたら、秦に仕えたくても手遅れになります。」
斉王は張儀の意見に同意しました。
 
張儀は西の趙に行きました。
張儀が趙王に言いました「大王が天下を率いて秦に対抗しているので、秦兵は函谷関から出ることができず既に十五年になります(東周顕王三十六年333年。蘇秦の合従)。大王の威望は山東に行き渡っているので、敝邑(秦)は恐懼して繕甲厲兵(軍を整えること)し、農業に力を入れて粟を蓄えてきました。惧れを抱いて警戒を解かなかったのは、大王が敝邑の罪を問うと思っていたからです。しかし今、大王の力のおかげで巴蜀を平定し、漢中も併せ、両周を包囲して(東周赧王元年314年に韓を破って和を結んだことを指すようです)白馬の津に至りました。秦は遠い僻地にありますが、心中から趙を憎んで久しくなります。今の秦は敝甲凋兵(敗戦して疲弊した軍。謙遜しています)を澠池に駐軍させており、今後、北は河黄河を渡り、東は漳(漳水)を越えて番吾を占拠し、邯鄲(趙都)の下で諸郡を合流させて、甲子の合戦西周武王が商王紂を破った戦い。周と商は甲子の日に牧野で戦いました)に倣って殷紂を正した故事を再現させたいと思っています。よって謹んで使臣張儀を派遣し、まず王の左右(近臣)にこう伝えさせました(実際は趙王に伝えていますが、遠慮して左右と称しています)。今、楚は秦と昆弟(兄弟)の国となり、韓と梁(魏)も東藩の臣を称し、斉は魚塩の地を献上しました(斉は秦に土地を譲っていません。趙を脅すための嘘です)。これは趙の右肩を奪ったのと同じです。右肩を失ったのに人と戦い、党を失って孤立したら、危難から逃れたくても逃れることはできません。秦は三将軍を発する予定です。一軍は午道(趙の東、斉の西)を塞ぎ、斉に命じて清河を渡らせ、邯鄲の東に駐軍させます。一軍は成皋に駐軍し、韓と梁を河外に駐軍させます。最後の一軍は澠池に駐軍します。四国が一つになって趙を攻撃し、趙が服したらその地を(秦魏で)四分するつもりです。このような状況下において臣が秘かに大王のために計るとしたら、秦王と直接会って結盟し、常に兄弟の国となることを約束するべきです。」
趙王も張儀の策に同意しました。
 
張儀は北の燕に行きました。
張儀が燕王に言いました「趙王も既に秦に入朝し、河間の地を割いて秦と和を結びました。もし大王が秦に仕えなかったら、秦は甲兵を雲中九原(燕の西)に下し、趙を駆って燕を攻めさせるでしょう。そうなったら易水も長城も大王のものではなくなります。しかも、今の斉や趙は秦にとって郡県のようなものなので、敢えて師を起こして反撃するとは思えません。王が秦に仕えれば、長く斉や趙の患から逃れることができます。」
燕王は常山(北嶽恒山)の尾(燕の西南界)にある五城を秦に譲って和を求めました。
 
張儀が秦に帰りました。
しかし秦都咸陽に入る前に秦恵王(恵文王)が死んでしまいました。恵王の在位年数は王を称してから十四年になります。
恵王の子蕩が即位しました。これを武王といいます。
武王は太子だった頃から張儀を好まなかったため、即位するとすぐに群臣が張儀の欠点をあげつらいました。
諸侯は張儀と秦王の関係がうまくいっていないと知り、次々に秦から離れて再び合従になびくようになりました。
 
但し、『史記秦本紀』には、「恵王が死んで子の武王が立つと、韓、魏、斉、楚、越が賓従服従した」とあります。越は恐らく趙の誤りです。
 
[] 『古本竹書紀年』によると、秦恵王が死んだ年(本年)、秦の褚里疾(樗里疾)が蒲を包囲しましたが、攻略できませんでした。
史記樗里子伝(巻七十一)』は五年後の秦昭王元年(東周赧王九年306年)に「樗里子が蒲を攻撃した」その後、「皮氏を攻めたが降せなかった」と書いています。
一説では、『古本竹書紀年』が樗里子による蒲の包囲を「秦恵王が死んだ年」としているのは、「秦武王が死んだ年(四年後。東周赧王八年307年)」の誤りといわれています(『古本竹書紀年輯校訂補』)。『古本竹書紀年』には武王が死んだ年に秦が魏の皮氏を攻めたという記述があります(後述します)
 
[] 『史記秦本紀』によると、この年、秦が楚を攻めて召陵を取りました。
 
[] 『史記魏世家』によると、魏が衛を攻めて二城を取りました。
『竹書紀年』(今本古本)にも「魏の翟章が衛を攻める」とあります。『史記六国年表』は「魏が衛を囲む」としています。
 
以下、『魏世家』からです。
魏が衛の二城を取りました。
衛君が魏の進攻を憂いると、魏の如耳(大夫の姓名)が衛君に言いました「私なら魏に兵を収めさせ、しかも成陵君(魏の権臣。詳細不明)を罷免させることができます。」
衛君は「先生にそれができるなのら、孤(国君の自称)は代々衛の国を挙げて先生に仕えます」と言いました。
如耳はまず成陵君に会ってこう言いました「以前、魏は趙を討って羊腸阪を断ち、閼與を奪い、趙を東西に二分しました。しかしそれでも趙を亡ぼさなかったのは魏が従主(合従の主)だったからです(魏が趙を掌握していたからです)。今の衛は滅亡に面しており、西の秦に仕えようとしています。秦に仕えることで衛を危機から逃れさせるくらいなら、魏が衛を赦した方がましです。そうすれば、衛の魏に対する徳(恩)は無窮のものとなります。」
成陵君は「わかった(諾)」と答えました。
その後、如耳は魏王にこう言いました「臣は衛君に謁見してきました。衛は元々周室から分かれた国なので、小国とはいえ多数の宝器を擁しています。今、国が難に臨んでいるのに宝器を献上しないのは、衛が心の中で『衛を攻めるのも衛を赦すのも魏王が決めているのではない』と思っているからです。よって、宝器を献上することがあったとしても、王のものにはなりません。臣が見たところ、最初に衛を赦すように進言した者が、衛から宝器を受け取るはずです。」
如耳が退出すると成陵君が魏王に謁見して衛を赦すように進言しました。
魏王は同意して兵を退きましたが、成陵君を罷免して終生二度と会わなくなりました。
 
[] 『今本竹書紀年』はこの年に「魏が趙将韓挙を破った」と書いていますが、恐らく誤りです(東周顕王四十四年325年参照)
 
 
 
次回に続きます。