戦国時代69 東周赧王(七) 張儀の死 前310年

今回は東周赧王五年です。
 
赧王五年
310年 辛亥
 
[] 秦の張儀が武王に言いました「王のために計るとしたら、もし東方で変事があれば、王は多くの地を得ることができます。臣は斉王が臣を強く憎んでいると聞きました。斉は必ず臣がいる場所を攻撃します。臣の不肖な身を梁(魏。魏都大梁)に行かせてください。そうすれば斉が必ず梁を攻めます。斉と梁が兵を交えて勝敗がつかない間に、王は韓を攻めて三川に入り、天子を擁して図籍(天下の版図)を掌握してください。これこそが王業というものです。」
秦王は同意しました。
 
張儀が魏に行くと、斉王は魏を攻撃しました。
魏王が恐れるのを見て張儀が言いました「心配いりません。臣に斉兵を退かせてください。」
張儀は自分の舍人を楚に送りました。
舎人が楚で工作したため、楚の使者が斉に向かいます。
楚の使者が斉王に言いました「王は秦に儀張儀を重んじさせようとしています。」
斉王がその理由を問うと、使者はこう言いました「張儀が秦を去ったのは、もともと秦王との間に謀があるからです。儀は斉と梁が互いに争っている間に、秦に三川を取らせるつもりです。今、王は本当に梁を攻撃しました。王は自ら国内を疲弊させ、国外では同盟した国を攻撃しているので張儀の計略に陥っているので)、秦王に儀を信任させることになります。」
斉王は魏から兵を還しました。
 
張儀は魏で相になって一年で死にました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』『魏世家』は「張儀、魏章が東の魏に移る」としており、『魏世家』の注(索隠)には「魏章は魏の将で、後にまた秦の相になる」とあります。
また、『古本竹書紀年』は本年五月に張儀が死んだと書いていますが、『今本』では二年前(東周赧王三年312年)の五月に既に死んでいます。
 
『魏世家』は張儀が魏の相になることを楚が阻止したとしています。
魏の相田需が死にました。楚は張儀、犀首、薛公(田文)が魏相になることを恐れています。
楚相昭魚(昭奚恤)が蘇代に言いました「田需が死んだ。わしは張儀、犀首、薛公の中の一人が魏の相になることを恐れる。」
蘇代が問いました「それでは、誰が魏の相になればあなたにとって都合がいいですか?」
昭魚は「わしは魏の太子が自ら魏の相になってほしい」と答えました。
史記索隠』はこの太子を魏襄王としています。その場合、『史記』では襄王が死んで哀王の時代になっているので、この出来事はもっと以前の事になります。
蘇代が言いました「あなたのために北に行かせてください。必ず太子を相にさせてみせます。」
昭魚がどのように話をするのか問うと、蘇代はこう言いました「あなたを梁王(魏王)に見立てて話をさせてください。(私は梁王にこう言います)『代(私)が楚から来たのは、昭魚が憂いて「田需が死んだが、張儀、犀首、薛公のうちの一人が魏の相になるのではないかと心配している」と言ったからです。しかし代(私)は昭魚にこう言いました「梁王は長主(優れた国君)なので、張儀を相にするはずがありません。張儀が相になったら必ず秦を優先して魏を疎かにするからです(右秦而左魏)。同じように犀首が相になったら韓を優先して魏を疎かにし(右韓而左魏)、薛公が相になったら斉を優先して魏を疎かにします(右斉而左魏)。梁王は長主なのでそのようなことをするはずがありません。」』これに対して梁王はこう問います『それでは、寡人は誰を相にするべきだ?』代はこう答えます『太子を自ら相にするべきです。太子が相になれば、三人は太子が(いずれ国君になるので)長期の相を勤めるはずがないと思い、それぞれ丞相の璽を得るために自分の国を挙げて魏に仕えるようになります。魏の強い力があり、三万乗の国(三大国)の補佐があれば魏は安泰です。だから太子を相にするべきです。』」
蘇代は北に向かって同じ内容を魏王に話しました。魏は太子を相に任命しました。
 
資治通鑑』はここで蘇秦張儀等の縦横家に対する評価を紹介しています。まずは『資治通鑑』の編者司馬光の言葉です。
張儀蘇秦は縦横の術によって諸侯の間を遊説し、高位と富貴を得ることができた。そのため天下が争って彼等に倣った。また、魏人で公孫衍という者もおり、犀首と号した。公孫衍も談説によって名を知られている。
その他にも蘇代、蘇厲、周最、楼緩といった徒が天下に遍き、辯詐によって高低を争ったが、それをすべて記録することはできない。張儀蘇秦、公孫衍は最も名が知られた者である。」
 
資治通鑑』胡三省注は姓氏の解説をしています。まず、周最の周姓は東周平王の子が汝川に封じられたことから始まります。人々がこれを周家とよんだため、周が氏になりました。後に東周赧王が秦に滅ぼされてから、周の王族が庶人になりました。彼等も人々から周家とよばれたため、周氏を名乗るようになりました。但し、商代には既に太史周任という名があるので、もっと前から周という姓氏は存在していたようです。
楼姓は夏王朝の少康の後裔で、西周時代に東楼公に封じられたため、その子孫が楼を氏にしました。
 
次は孟子の評価です。
ある人が孟子に言いました「公孫衍や張儀は大丈夫とみなすべきでしょう。彼等が一度怒ったら諸侯を懼れさせ、安居したら天下が静まりました。」
孟子が言いました「大丈夫とみなすには足りません。君子とは天下の正位に立ち、天下の正道を行い、志を得たら民と共に正道を行い、志を得られなかったら一人でその道を行い、富貴になっても淫(道から外れること)とならず、貧賎となっても移(信念を変えること)とならず、威武を持っても力で人を屈服させることがありません。このような人物を大丈夫というのです。」
 
次は揚子(揚雄。漢代)の『法言(淵騫卷第十一)』からです。
ある人が問いました「張儀蘇秦は鬼谷の術を学び、縱横の言を習得し、中国(中原)を十余年も安定させたといいますが、その通りでしょうか?」
揚雄が言いました「彼らは詐人(詐術詭弁の士)なので、聖人なら憎むはずだ。」
孔子の言を読んでから張儀蘇秦の事を行ったら如何でしょう?」
「鳳の鳴き声がありながら鷙の翰(羽毛)をもつようなものだ。」
「しかし子貢も同じだったのではありませんか?」
「子貢は乱があるのに解決できないことを恥とした。しかし張儀蘇秦は遊説をしながら富貴を得られないことを恥とした。」
張儀蘇秦は前人と異なることをしたので(または「後人がまねできないことをしたので」。原文「跡不蹈已」)、才術があったといえるのではありませんか?」
「昔の帝王(堯舜)は奸佞の者を退けたが、奸佞の者に才がなかったわけではない。才は才でも、我々が思っている才ではない(才があっても佞臣なら近づけてはならない)。」
 
[] 秦王が甘茂を派遣して蜀相陳荘を殺しました(昨年参照)
これは『資治通鑑』の記述です。
史記秦本紀』には「秦が義渠、丹、犂を討伐する」とあります。丹と犂は蜀に服属していた戎族です(東周赧王四年311年参照)
 
[] 秦王と魏王が臨晋で会しました。
秦王は即位したばかりの武王です。魏は『史記秦本紀』では「恵王」としていますが、恵王は既に死んでいるはずです。
『六国年表』では「魏哀王」、『資治通鑑』では「魏襄王」の時代になります。
 
[] 趙武霊王が孟姚を娶りました。『史記・趙世家』と『資治通鑑』からです。
この年(趙武霊王十六年)、武霊王が大陵で遊びました。
後日、武霊王が夢を見ました。処女(少女)が琴を弾きながら詩を歌っています。その内容はこうです「光り輝く美しい人、その様子は苕花のよう。これは天命でしょうか。私を知る者は誰もいません(美人熒熒兮,顔若苕之榮。命乎命乎,曾無我嬴)。」
別の日、武霊王が酒を楽しみながら夢の話をしました。少女の様子を詳しく語ります。それを聞いた呉広が夫人(妻)を使って娘の娃嬴を後宮に入れました。娃嬴は孟姚ともいいます。
 
資治通鑑』胡三省注によると、呉姓(呉氏)は国名(呉国)を元にした氏です。
『趙世家』の注(索隠)は、呉広を帝舜の子孫としています。舜の後代は虞に封じられましたが、虞と呉は音が近かったため、呉を氏にする者もいたようです。「孟姚」の「姚」は帝舜の姓なので、呉広は姚姓から生まれた呉氏のようです(初めに姓があり、子孫が増えると氏が生まれます。姓は本家、氏は分家と考えるとわかりやすいと思います)
但し、『論衡紀妖篇(巻二十二)』は「呉広の娘娃嬴、字は孟姚」と書いています。この場合、孟姚は字なので姚姓ではなく、娃嬴の嬴が姓と考えられます。娃は美女の意味です。
 
孟姚は武霊王の寵愛を得て何という子を産み、後に王后に立てられます(東周赧王十四年301年)
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、洛水が成周に入り、山上の川が洪水を起こしました(山水大出)
 
[] 『古本竹書紀年』によると、楚の庶章が兵を率いて魏王に会い、襄丘に駐軍しました。
『今本』は翌年の事としています。
 
 
 
次回に続きます。