戦国時代70 東周赧王(八) 楚の合従 前309年
今回は東周赧王六年です。
赧王六年
前309年 壬子
[一] 秦が初めて丞相の職を置きました。樗里疾を右丞相に任命します。
樗里疾は秦恵王の弟です。
『資治通鑑』胡三省注によると、樗里疾は渭南の陰郷に住み、そこには大きな樗樹があったため、樗里子と号しました。
この年、 斉湣王が従長(合従の長)になろうとしました。
斉湣王は楚と秦が連合することを嫌い、使者を派遣して楚懐王に書を送りました。そこにはこう書かれています「寡人(斉王)は楚が尊名(王の称号。地位)について深く考慮していないのではないかと心配しています。最近、秦では恵王が死に、武王が立ちました(武王は諡号ですが原文のままにしておきます)。張儀は魏に奔り、樗里疾と公孫衍(犀首)が用いられ、楚は秦に仕えようとしています。樗里疾は韓との関係を善くし、公孫衍は魏との関係を善くしています。楚が秦に仕えたら韓・魏が(秦・楚の同盟を)恐れ、二人を通して秦との和を求めるでしょう。そうなったら燕と趙も秦に仕えるようになります。四国が争って秦に仕えたら、秦にとって楚は郡県程度の価値しかありません。王(楚王)はなぜ寡人と力を合わせて韓、魏、燕、趙を巻き込み、合従によって周室を尊び、兵を収めて民を休ませ、天下に号令しようとしないのですか。天下には王の命に逆らう者がいないので、王は名を成すことができます。その時、王が諸侯を率いて討伐すれば、必ず秦を破り、武関、蜀、漢の地を取り、呉・越の富を自分の物とし、江海の利を独占することができます。韓と魏が上党を割譲し、(楚の勢いは)西の函谷関に迫り、楚の強盛は百万倍となります。そもそも王は張儀に偽られて漢中の地を失い、藍田で敗戦しました。天下は王に代わって憤怒しています。それなのに王は真っ先に秦に仕えようとしています。大王の熟考を願います。」
楚懐王は秦との和親を考えていましたが、斉王の書を見て躊躇しました。群臣が集められましたが、群臣の意見も分かれます。
昭雎が言いました「王は東の越の地を取りましたが、耻を雪ぐには充分ではありません。秦の地を奪ってこそ、諸侯の前で恥を雪いだことになります。王は斉・韓との関係を深く改善することで樗里疾を重んじるべきです(楚が斉・韓との関係を深めることで、韓との関係を重視している樗里疾の地位を向上させるべきです)。そうすれば、王は韓・斉に尊重されるので、地を求めることができます(楚が韓・斉の支持を得られれば秦から領地を取り戻すことができます)。秦が韓の宜陽を破りましたが、韓はまだ秦に仕えています。これは韓の先王の墓が平陽にあり、平陽は秦の武遂から七十里しかないため、秦を畏れているからです。そうでなければ(韓が秦に服していなければ)、秦が三川を、趙が上党を、楚が河外を攻めて、韓は必ず亡ぼされます。(秦と趙が韓を攻めた時)楚が韓を援けたとしても、韓の滅亡を防ぐことはできません。しかし韓を存続させようとしたのは楚です。韓は既に秦から武遂を得て河山(韓の西境)を塞としました(楚が韓を援けて領土を取り返したようです。但し韓が武遂を得るのは三年後のことです。後述します)。韓が徳(恩)に報いる相手は、楚を置いて他にはありません。韓は早く王に仕えたいと思っているはずです。斉が韓を信用しているのは、韓の公子・昩が斉相だからです。韓は既に秦から武遂を得ました。王はますます韓との関係を善くし、斉・韓に樗里疾を重んじさせるべきです。疾が斉・韓に重視されたら、その主(秦王)が疾を廃すことはありません。そこで楚がますます樗里子を重んじたら、樗里子は(楚に感謝するので)楚のために秦王に発言し、楚を侵して奪った地を返還するでしょう。」
楚懐王は秦との同盟を放棄して斉と結び(秦とは同盟をしていませんが、樗里子とは秘かに連絡を取ったはずです)、韓との関係を改善しました。
[五] 『今本竹書紀年』によると、楚の庶章が兵を率いて魏王に会い、襄丘に駐軍しました。
『古本』は前年の事としています。
[六] 『華陽国志・蜀三』によると、この年、秦の陳壮が反して蜀侯・通国(『史記』では「通」)を殺したため、秦が庶長・甘茂と張儀、司馬錯を派遣して再び蜀を討伐し、陳壮を誅殺しました(東周赧王四年・前311年参照)。
次回に続きます。