戦国時代71 東周赧王(九) 秦の甘茂 前308年

今回は東周赧王七年です。
 
赧王七年
308年 癸丑
 
[] 秦と魏が応で会しました。
資治通鑑』胡三省注によると、応はかつて西周武王の子が封じられた国でした。『春秋左氏伝』に「邘、晋、応、韓は武王の穆(子)」とあります。
 
[] 『史記秦本紀』『韓世家』によると、この年、秦武王が韓襄王と臨晋外(または「臨晋水」)で会しました。
 
[] 秦王が甘茂を派遣し、魏と約束して韓を攻めることにしました。
以下、『資治通鑑』に『史記・甘茂列伝(巻七十一)』の内容を一部加えて書きます。
 
秦武王が甘茂にこう言いました「寡人が三川に車道を通じさせて周室を窺うことができたら、死んでも悔いはない。」
甘茂が言いました「臣を魏に派遣して、韓討伐の約束をさせてください。また、向寿を補佐として従わせてください。」
武王はこれに同意しました。向寿は秦宣太后(昭襄王の母)の外族(親族)です。
甘茂が魏に入ると、向寿に言いました「子(汝)は帰って王にこう報告しろ『魏は臣の指示に従いました。しかし王は韓討伐を中止するべきです。』事が成ったら全て子の功績だ。」
向寿は帰国して甘茂の言葉を秦王に伝えました。
 
資治通鑑』胡三省注に向姓の解説があります。宋文公の枝子庶子に向文旰という者がおり、旰の孫にあたる戌が祖父の字(向文)から向を氏にしたという説があります。但し、『春秋左氏伝』では「向戌は宋桓公の子孫」となっています。
 
向寿の報告を聞いた秦王は、帰国した甘茂を息壤で迎えて出兵に反対する理由を問いました。
甘茂が言いました「宜陽は大県であり、実際には郡に値します(『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代は県の方が郡より大きかったため、晋の趙鞅が「上大夫は県を授かり、下大夫は郡を授かる」と発言したこともありました。しかし戦国時代になると郡の方が県よりも大きくなったようです)。今、王は数々の険(函谷関や三崤の険)に逆らって千里を進み、難所を攻撃しようとしています。以前、曾参孔子の弟子)と同姓同名の魯人が人を殺しました。ある人が曾参の母に『あなたの子が人を殺した』と伝えましたが、母は平然と機織りを続けました。ところがそれを伝える者が三人に達すると、母は杼(機織りの道具)を投げ捨てて機械から下り、壁を越えて走って出ていきました。臣の賢才は曾参に及ばず、王の臣に対する信頼は曾参の母に及びません。また、臣を疑う者も三人ではすみません。臣は大王が杼を投げ捨てることを恐れるのです。かつて魏文侯は楽羊に中山を攻めさせ、三年かけてやっと征服しました(東周威烈王十八年・前408年)。しかし楽羊が帰国して論功した時、文侯が一篋(竹の箱)を満たした謗書(楽羊を誹謗する書)を見せたため、楽羊は再拝稽首して『これは臣の功ではありません。国君の力によるものです』と言いました。今の臣は羇旅の臣(寄生の臣。甘茂は楚の下蔡の人です)です。樗里子や公孫奭が韓の事を理由に議したら(韓攻撃が長引いていることを理由に甘茂を誹謗したら)、王は必ずそれを聴くでしょう。その結果、王は魏王を騙し、臣は公仲侈(韓相)の恨みを買うことになります。」
秦王が言いました「寡人がそのような意見を聴くことはない。子と盟を結ぼう。」
二人は息壤で盟を結びました。
 
秋、甘茂と庶長封が宜陽を攻撃しました。
 
[] 『史記秦本紀』は、「南公揭が死に、里疾(樗里疾)が韓の相になる」という記述があります。南公揭は恐らく韓の相で、死後に樗里疾が相の位を継いだようです。しかし『史記樗里子列伝(巻七十一)』にはそのような記述がありません。
 
『樗里子列伝』では、甘茂が韓の宜陽を攻めた時、樗里疾が周に行ったとしています。以下、『樗里子列伝』からです。
甘茂が宜陽を攻めた時、秦は樗里疾に車百乗を率いて周に向かわせました。周は兵を出して迎え入れます。この時の周の態度が恭敬だったため、楚王が怒って周を譴責しました。
そこで游騰(游が姓、騰が名)が周のために楚に赴き、楚王にこう言いました「かつて知伯(晋)が仇猶(夷狄の国)を攻めた時、まず広車を贈り、その後ろに兵を従わせて仇猶を滅ぼしました(知伯は仇猶を滅ぼす時、大鐘を仇猶に贈ると称して大車を先に派遣し、その後に兵を従わせました)。仇猶が滅んだのは備えがなかったからです。斉桓公が蔡を討伐した時は、楚を誅すと称して蔡を襲いました。今の秦は虎狼の国です。その秦が車百乗を率いる樗里子に周を訪問させました。周は仇猶や蔡を教訓とし、長戟を持った兵を前に置き、強弩を持った兵を後に配置して樗里子を受け入れました。名目は疾を守るためとしましたが、実際は監視が目的です。周が自分の社稷を心配して手を打つのは当然のことです。もし国を亡ぼすことになったら、大王(楚王)にも憂いを及ぼしてしまいます。」
楚王は游騰の言を喜びました。
 
[] 『今本竹書紀年』に「魏の翟章が鄭()を援けて南屈に駐軍した」という記述がありますが、詳細はわかりません。『古本竹書紀年』は四年後の東周赧王十一年(前304年)に書いています。
 
[] 『華陽国志蜀三』によると、この年、秦が子惲(公子惲。『史記』では煇。東周赧王十四年・前301年参照)を蜀侯にしました。
蜀の相陳壮が反して蜀侯通国(または「通」)を殺したためです(『史記秦本紀』『資治通鑑』では東周赧王四年・前311年、『華陽国志』では前年)
 
また、『華陽国志』は「秦の司馬錯(前年、蜀の乱を平定しました)が巴蜀の衆十万、大舶船万艘を率い、米六百万斛を準備して長江から楚を攻め、商於の地を取って黔中郡にした」と書いています。
但し、商於はかつて衛鞅が封じられた地なので、当時は既に秦領だったと思われます(東周赧王三十五年280年に再述します)
 
 
 
次回に続きます。