戦国時代 周の出来事

史記・周本紀』が周に関する記述を書いています。
いつの事かははっきりしません。以下、列記します。
 
秦が両周(東西の周)の間に道を借りて(『戦国策・東周策』では「両周の間」ではなく「周に道を借りる」とあります。『東周策』)なので、この周は東周を指すと思われます)韓を討伐しようとしました。
周は秦に道を貸したら韓に怨まれ、貸さなかったら秦を怒らせることになります。
史厭が周君(『索隠』によると西周武公ですが、『戦国策』と下の文を見ると、東周の君ではないかと思われます)に言いました「人を送って韓の公叔にこう伝えるべきです『秦が周を通って韓を討伐するのは、東周を信用しているからです。公が周に地を譲り、質(人質)を楚に送れば(韓が周・楚と同盟している姿を示せば)、秦は楚を警戒し、周を信用しなくなり(前の文で秦が信用しているのは「東周」と言っているので、この周も「東周」だと思われます)、韓への出兵を中止します。』その後、秦にもこう伝えます『韓が周に地を収めるよう強制しました。これは秦に周を疑わせるためです。周が受け取らないわけにはいきません。』秦には周が韓の地を受け取ることを阻止する理由がありません。こうすれば周は韓から領地を得て、秦の要求にも背かなくてすみます(秦が韓出兵を中止すすれば道を貸す必要もありません)。」
 
 
秦が西周君を招きましたが、西周君は躊躇して韓王(『戦国策西周策』では魏王)にこう伝えました「秦が西周君を招いたのは、王(韓王。『戦国策』では魏王)南陽を攻めるためです。王は南陽に兵を向けるべきです。周君はそれを理由に(韓、もしくは魏が南陽に兵を出したことを理由に)、秦に行くことを拒否できます。周君が秦に入らなければ、秦は河黄河を越えて南陽を攻めることはできません。」
 
 
東周と西周が戦い、韓が西周を援けようとしました。
ある人が東周のために韓王に言いました「西周は元々天子の国だったので、名器重宝が豊富にあります。王が兵を動かさなければ、東周に徳(恩)を与え、西周の宝を全て得ることができます。」
 
 
この後、『史記周本紀』には「王赧が成君に言った(王赧謂成君)」とありますが、後の文が失われているようです。
 
 
史記周本紀』から今回最後の記述です。
楚が韓の雍氏を包囲しました。
東周赧王三年(前312年)に楚が雍氏を攻めており、赧王十五年(前300年)にも楚が雍氏を包囲します。『韓世家』の注(集解)は、『周本紀』の下記内容を赧王十五年の事としています(再述します)
 
楚が雍氏を包囲したため、韓が東周に対して甲(武器)や粟(食糧)を要求しました。
東周君は蘇代を招いてどう対応するかを相談します。蘇代が言いました「周君が心配する必要はありません。臣が韓による甲や粟の徴収を中止させ、しかも周君のために高都(韓邑)を得てみせます。」
周君が言いました「子(あなた)にそれができるのなら、国を挙げて子の指示を聞こう。」
蘇代が韓の相国(『索隠』によると公仲侈)に言いました「楚が雍氏の包囲を開始した時、三カ月で攻略すると宣言しましたが、既に五カ月経っても攻略できません。これは楚が疲弊しているからです。最近、相国は周に甲と粟を要求しましたが、これでは韓も疲弊していることを楚に教えてしまいます。」
韓の相国は「その通りだ。しかし使者を既に送ってしまった」と言いました。
そこで蘇代が言いました「周に高都を与えるべきです。」
韓の相国が怒って言いました「甲と粟の徴収をやめるだけでも充分ではないか。なぜ周に高都を与えなければならないのだ。」
蘇代が言いました「周に高都を与えれば、周は態度を変えて韓に入ります。そうなれば秦が激怒して周との関係を絶ちます。疲弊した高都を使って完全な周を得ることができるのに、なぜ与えないのですか?」
韓の相国は「善し」と言って高都を周に与えました。