戦国時代73 東周赧王(十一) 秦の内乱 前306~302年

今回は東周赧王九年から十三年です。
 
赧王九年
306年 乙卯
 
[] 『史記甘茂伝(巻七十一)』によると、この頃(前年の出来事かもしれません)、楚が韓の雍氏を攻めました。以下、『甘茂伝』からです。
以前、秦が楚を丹陽で破った時(東周赧王三年312年)、韓が楚を援けなかったため、楚懐王は韓を怨んでいました。そこで雍氏を包囲しました。
韓は公仲侈を秦に派遣して急を告げます。
しかし当時の秦は昭王が即位したばかりで、太后も楚人だったため、韓を援けようとしませんでした。
そこで公仲は甘茂を通して援けを請いました。
甘茂が秦昭王に言いました「公仲は秦の救援を得られると信じているから楚に対抗しているのです。雍氏が包囲されたのに秦師が殽山を下らなかったら、公仲は首を仰がせて入朝しなくなり(秦に対して恭順ではなくなり)、韓の公叔も国を挙げて南の楚と同盟するでしょう。楚と韓が一つになったら、魏氏も従わざるを得なくなるので、秦を攻撃する形が作られてしまいます。坐して人に攻撃されるのを待つのと、自ら人を攻撃するのとでは、どちらに利があるでしょうか。」
秦王は「善し」と言って兵を発し、殽山を下って韓を援けました。
楚は兵を還しました。
 
[] 秦昭王が向寿を送って宜陽を按撫させました。
同時に樗里子と甘茂に魏を攻撃させました。
 
史記六国年表』によると、この年、秦が魏の皮氏を攻めましたが、攻略できず兵を解きました。『魏世家』は前年に書いています。
『樗里子伝(巻七十一)』では、本年に樗里疾が蒲と皮氏を攻めてています(東周赧王四年311年参照)
前年に出兵して本年まで戦いが長引いたのかもしれません。
 
甘茂が秦王に対して武遂を韓に還すように進言しました。
資治通鑑』胡三省注によると、武遂は元々韓の地で、七十里離れた平陽には韓の先王の陵墓があります(東周赧王六年・前309年参照)。前年、甘茂が宜陽を攻略した時、秦は武遂に城を築きました。
向寿と公孫奭が甘茂に反対しましたが、秦王は甘茂に従って武遂を韓に返しました。
二人は甘茂を怨んで讒言するようになります。
この時、甘茂は魏の蒲阪を攻撃していましたが、禍を恐れたため、蒲阪攻略をあきらめて亡命しました。
樗里子も魏と講和して兵を退きました。
 
甘茂は斉に奔りました。
 
以上は『資治通鑑』の記述を元にしました。
史記甘茂列伝(七十一)』も甘茂は斉に奔ったとしていますが、『秦本紀』には「厳君疾を相にする。甘茂は魏に移る」と書かれています。甘茂は後に魏で死ぬので、「魏に移った」と書いたのかもしれません。
厳君は樗里疾の号です。
当時の樗里疾について、『樗里子列伝(巻七十一)』は「秦武王が死んで昭王が立つと、樗里子がますます尊重された」と書いています。
 
[] 趙武霊王が中山の地に進攻して寧葭(または「蔓葭」)に至り、西の胡地に入って楡中に至りました。
林胡王(林胡は儋林ともいい、胡人の部族です)が馬を献上して和を求めます。
武霊王は帰国してから楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に派遣しました。
また、代相趙固に胡人を指揮させ、胡兵を集めました。
 
資治通鑑』胡三省注に姓氏の解説があります。
仇姓は春秋時代の宋に大夫仇牧という者がいました。富姓は春秋時代の周に大夫富辰という者がいました。
 
[] 楚王が斉韓と合従しました。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)によると、魏が皮氏に築城しました。
 
[] 楊寛の『戦国史』等はこの年に楚が越を滅ぼしたとしています(東周顕王三十五年334年参照)
 
 
 
翌年は東周赧王十年です。
 
赧王十年
305年 丙辰
 
[] 彗星が現れました。
資治通鑑』胡三省注が彗星について解説しているので抜粋します。彗星は掃星(ほうき星)ともよばれており、それが現れると戦が起きるといわれています。掃星なので旧を除いて新に変えるという意味もあります。孛星という名称もあり、彗星の一種とされています。
 
[] 趙が中山を攻めました。『史記趙世家』と『資治通鑑』からです。
が右軍を、許鈞が左軍を、公子章が中軍を率い、武霊王が三軍を統率しました。牛翦が車騎(戦車と騎兵)の将となり、趙希が胡と代の兵を指揮します。
趙希が率いる胡代の兵は隘路を通って曲陽で趙の諸軍と合流し、丹丘、爽陽(または「華陽」。『資治通鑑』胡三省注によると、北岳の別名を華陽台といい、常山を指します。『史記正義』によると、北岳には五つの別名があります。蘭台府、列女宮、華陽台、紫台、太一宮です)、鴻之塞(または「鴟之塞」。関所)を取りました。
王軍は鄗、石邑(古城)、封龍(一名「飛龍山」)、東垣を占領します。
中山が四邑を趙に献上して和を求めたため、武霊王は同意して兵を還しました。
 
[] 秦の宣太后には穰侯魏冉(または「魏厓」)という異父弟がおり、華陽君羋戎という同父弟がいました。また、秦昭襄王の同母弟には高陵君顕と涇陽君悝がいました。このうち、魏冉の賢才が最も知られており、秦恵文王から武王の時代まで要職を任されていました。
武王が死んでから諸弟が王位を争いましたが、魏冉は昭王(昭襄王)の即位に協力しました。
そのため、即位した昭王は魏冉を将軍とし、咸陽の守備を命じました。
 
この年、庶長壮や大臣諸公子(『資治通鑑』では「大臣、諸公子」。『史記秦本紀』では「大臣、諸侯、公子」)が謀反を計りましたが、魏冉が全て誅殺しました。恵文后(恵文王の正妻。楚女。武王の実母で昭襄王の嫡母。嫡母は父の正妻という意味)も命を落とし、悼武王后(武王の后。昭王の嫂)は魏に帰りました。
王の兄弟で不和だった者も全て魏冉に滅ぼされます。こうして昭襄王の王位が確立されました。
しかし昭襄王はまだ若かったため、宣太后が政権を握り、魏冉に政務を委ねました。魏冉の威信が秦国を震わせます。
 
この内争について『古本竹書紀年』は「秦で内乱が起き、太后(恵文后)および公子雍、公子(恐らく庶長壮と同一人物)を殺した」と書いています。
史記六国年表』には「桑君が乱を成し、誅される」とあり、『史記穰侯列伝(巻七十二。穰侯は魏冉)』には「季君の乱を誅す」とあります。『六国年表』の「桑君」は恐らく「季君」のあやまりです。
『穰侯列伝』の注(索隠)には「季君は公子・壮を指し、僭立(自ら即位すること)して季君と号した」とあります。
 
尚、『穰侯列伝』では、「武王の母は恵文后と号し、武王より先に死んだ」としています。これが正しいとしたら、恵文后の死は内乱と関係がないことになります。
 
[] 『史記楚世家』によると、楚が斉から離れて秦と同盟しました。
秦昭王は即位したばかりだったため、楚に厚賂を贈りました。
楚は秦に使者を送って婦人を迎え入れました(楚徃迎婦)
『六国年表』を見ると「秦が楚に来て婦人を迎えた(秦来迎婦)」とあるので、双方が婦人を娶ったのかもしれません。
 
 
 
翌年は東周赧王十一年です。
 
赧王十一年
304年 丁巳
 
[] 『史記秦本紀』によると、この年、秦昭襄王が冠礼を行いました。
 
[] 秦昭襄王と楚懐王が黄棘で会盟しました。
秦は楚に上庸を還しました。
 
[] 『古本竹書紀年』はこの年に「楚の吾得が師()を率いて秦と共に鄭(韓)を攻め、綸氏を包囲した。魏の翟章が鄭を援けて南屈に駐軍した」と書いています。
『今本竹書紀年』は楚と秦が綸氏を攻めたのを東周顕王三十五年(前334年)、魏の翟章が鄭を援けたのを東周赧王七年(前308年)の事としています。
 
 
 
翌年は東周赧王十二年です。
 
赧王十二年
303年 戊午
 
[] 彗星が現れました。
 
[] 秦が魏の蒲阪(または「蒲反」)、陽晋(または「晋陽」)、封陵(または「封谷」)を取りました。
また、韓の武遂を取りました。
 
[] 楚が合従を裏切って秦と命を結んだため(前年)、斉、韓、魏が共に楚を攻めました。
楚王は太子横を質(人質)にして秦に救援を請います。
秦の客卿通が楚を援けたため、三国は兵を退きました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が中山を攻めました。
 
 
 
翌年は東周赧王十三年です。
 
赧王十三年
302年 己未
 
[] 秦王、魏王と韓の太子嬰が臨晋で会しました。
韓の太子は秦都咸陽を訪問してから帰国しました。
秦が魏に蒲阪(または「蒲反」)を還しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』には、「魏王が秦の応亭に来朝し、魏に蒲坂を還した」とあります。
 
[] 楚の太子横は人質として秦にいました(前年)
この年、秦の大夫が楚の太子と私闘し、太子は秦の大夫を殺して楚に逃げ帰りました。
 
[] 『竹書紀年』(今本・古本)によると、邯鄲(趙)が吏大夫奴を九原に遷し、また、将軍大夫適子(嫡子)代史(「代史」は『今本』の記述。「史」は恐らく「吏」の意味で、「代史」は「代の官吏」。『古本』では「戍吏」となっており、辺境を守備する官吏の意味)に貂服を着るように命じました。
史記趙世家』では二年後に趙が九原を支配下に置きます。
貂服を着るように命じたというのは、胡服を着るように命じたという意味のようです(東周赧王八年307年参照)。楊寛の『戦国史』はこの出来事を「将軍大夫適子代吏等に貂服を着させ、騎射を習わせた」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。