戦国時代74 東周赧王(十二) 垂沙の戦いと荘蹻 前301年

今回は東周赧王十四年です。
 
赧王十四年
301年 庚申
 
[] この年、皆既日食がありました。
史記秦本紀』『六国年表』によると、昼なのに夜のように暗くなったようです。
 
[] 秦が韓の穰を取りました。
 
[] 『資治通鑑』によると、蜀守(郡守)煇が秦に叛したため、秦の司馬錯が誅殺して蜀を平定しました。
史記秦本紀』では「蜀守煇」を「蜀侯煇」としています。
『華陽国志蜀三』をみると東周赧王七年(前308年)に秦が子惲(『史記』では煇)を蜀侯にしているので、「蜀侯」が正しいようです。
 
『華陽国志』は蜀侯惲の乱を冤罪としています。以下、『華陽国志蜀三』からです。
蜀侯惲が山川の祭祀を行い、饋(食品。恐らく胙。胙は祭祀で使った肉)を秦昭襄王に献上しました。ところが惲が昭襄王に寵愛されることを惲の後母(昭襄王の妻妾の一人。惲も昭襄王の子です)が嫌い、饋に毒を入れて王に進めました。王が食べようとした時、後母が言いました「饋は二千里も離れた所から送られて来ました。試してみるべきです。」
王が近臣に与えると、近臣はすぐに死んでしまいました。
激怒した王は司馬錯を蜀に派遣し、惲に剣を下賜して自裁を迫りました。惲は恐れて夫婦ともに自殺します。
秦は惲に仕えていた郎中令嬰等二十七人を誅殺しました。
蜀人は惲を郭(外城)の外に埋葬しました。
翌年、秦昭襄王が子の綰を蜀侯に封じました。
東周赧王十七年(前298年)、昭襄王は初めて惲の無罪を知り、使者を送って郭外の棺を郭内に移して改葬させました。
 
[] 秦の庶長奐が韓、魏、斉と共に楚を攻めました。楚の太子が秦から逃げ帰ったこと(前年)に対する報復です。
連合軍は重丘(または「茈丘」)で楚軍を破り、楚将唐昩(または「唐眜」「唐蔑」)を殺しました。楚は重丘を失います。
 
以上は『史記楚世家』と『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』は「秦の庶長奐が楚を攻めて二万を斬首した」と書いています。
また、『六国年表』には「斉が公子を将にし、大功を立てた」とあります。
 
資治通鑑』胡三省注によると、楚将唐昩の唐姓は唐堯(帝堯)から始まります。
 
楊寛の『戦国史』はこの戦いを「垂沙の戦い」としており、『楚世家』『資治通鑑』とは異なる解釈をしています。以下、『戦国史』からです。
「前301(本年)に斉宣王が死んで(宣王の在位期間は諸説があります)湣王が継ぎ、孟嘗君田文が相になった。この時、韓魏は絶えず秦に圧迫されていたため、斉に頼ろうとしていた。そこで孟嘗君は斉魏の三国を合従させた。
合従が成立すると、孟嘗君は楚を攻撃することにした。斉将匡章、魏将公孫喜、韓将暴鳶が三国の連合軍を率いて楚の方城に進攻し、沘水付近の垂沙で楚軍に大勝した。楚国の将唐蔑(または「唐昩」)が殺され、宛葉以北の地は韓と魏の両国に奪われた。
垂沙の役で斉魏の三国が大勝したため、楚は斉に屈服しただけでなく、和を求めるために太子横を人質として送った(翌年)。秦も恐れて涇陽君を人質にし、斉と修好した(本年。後述します)。前299年、秦が孟嘗君を招き、秦の相にした。」
「『史記楚世家』『田世家』『魏世家』『六国年表』はこの年に斉魏と秦が楚を攻めて楚将唐蔑を殺したと書いているが、『呂氏春秋処方篇』を見ると『斉が章子を将とし、韓魏と共に荊(楚)を攻め(中略)、唐蔑を殺した』とあり、『戦国策秦策四』も『三国が楚攻撃を謀ったが、秦が楚を援けることを恐れた。ある人が薛公孟嘗君に進言した孟嘗君に秦による楚救援を阻止させる策を授けました。下述します)。その結果、三国が協力して楚を攻め、楚が秦に急を告げたが、秦は兵を出さず、三国が大勝して功を立てた』としている。(中略)これらの記述は秦がこの戦いに参加しなかったことを証明している。
史記秦本紀』には秦昭王八年(東周赧王十六年299年。二年後)に『秦の将軍羋戎が楚を攻めて新市を取った。斉が章子を、魏が公孫喜を、韓が暴鳶を送って共に楚の方城を攻め、唐昩を取った』とある。ここでは『唐昩を取った』という戦いを誤って二年後の事とし、秦が楚を攻めた戦いと斉韓が斉を攻めた戦いを同じ年に書いているが、『唐昩を取った』という戦果は秦によるものではなく、斉韓の三国が方城を攻めた結果としている(『楚世家』等では秦と三国連合軍が唐蔑(唐昩)を殺しています。同じ『史記』でも『秦本紀』だけ内容が異なります)
この戦いがあった場所は、『史記秦本紀』は方城、『戦国策趙策四』は陘山、『呂氏春秋処方篇』は沘水の辺、『荀子議兵篇』は垂沙としており、『戦国策楚策四』は誤って長沙と書いている。楚の方城は沘水の辺にあり、垂沙は恐らく沘水の辺の地名である。陘山もその付近にあるので、全てが同じ場所を指している。」
 
戦国史』の文中にある『戦国策秦策四』の孟嘗君に関する記述を紹介します。
秦は楚の漢中を取ってから再び藍田で戦い、楚軍に大勝しました。韓と魏も楚の難を聞いて南下し、鄧を襲いました。楚王は秦との戦いを中断して兵を還しました。
後に三国(斉魏)が共に楚を攻撃しようとしましたが、秦が楚を援けるのではないかと心配しました。
するとある人が薛公孟嘗君に言いました「使者を楚に送ってこう伝えるべきです『三国の兵(南下して楚を襲った兵)は楚から去ろうとしています。楚が三国に協力して秦を攻めれば、藍田だけでなく、今までに失った地を取り返すこともできます。』楚は(三国に攻撃された時)秦が自国を援けてくれるかどうかを疑っているので、三国が兵を退くと聞けば、必ず積極的に三国に協力します。楚が三国と共に秦を攻撃する体勢を作ったら、それを知った秦が楚を援けるはずがありません。それを見極めてから三国が楚を急襲すれば、楚が秦に急を告げても、秦はますます兵を出そうとしなくなるでしょう。これが楚と秦を離間させて楚を攻める策です。必ず大功を立てることができます。」
薛公は「善し」と言って使者を楚に派遣しました。楚は三国への協力を約束します。その後、三国が共に楚を攻めました。
楚が秦に急を告げましたが、秦は援軍を出さず、三国が大勝して戦果を挙げました。
 
[] 趙武霊王が中山を討伐し、中山君は斉に奔りました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記六国年表』もこの年に「趙が中山を攻めた」としていますが、『趙世家』では翌年に趙が中山を攻撃しており、『秦本紀』は昭襄王八年(二年後。東周赧王十六年299年)に趙が中山を攻め、その君が亡命して斉で死んだと書いています。
 
『古本竹書紀年』には「魏が山を救い、集胥口を塞ぐ」という記述があります。この「山」は恐らく中山を指すので、魏が中山を援けるために集胥口という要所に兵を出したようです。但し、いつの事かはわかりません。
 
[] 『史記秦本紀』によると、この年、秦の涇陽君(昭襄王の同母弟。『史記索隠』によると名は市。『資治通鑑』では名は悝。東周赧王十年305年参照)が質(人質)として斉に行きました。
史記田敬仲完世家』『六国年表』『資治通鑑』は翌年(東周赧王十五年300年)の事としています。
涇陽君が斉に送られたのは孟嘗君と交換するためだったようです(東周赧王十六年299年再述)
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、趙の恵后が死にました。恵后は武霊王の最初の后で、太子章の母です。
恵后が死んだため、武霊王の寵愛を受けていた呉娃(孟姚。娃嬴。東周赧王五年310年参照)正室になりました。
武霊王は周に胡服を着させ、王子(孟姚の子)の傅(教育官)に任命しました。
 
[] 楊寛の『戦国史』はこの年に楚で荘蹻が挙兵したと書いています。以下、『戦国史』の第九章から一部抜粋しながら紹介します。なお、現代の中国(大陸)史学会では民衆の挙兵を「起義」とよんでいます。
「前399(楚懐王二十九年)、斉魏の三国が垂沙で楚を大破して唐蔑を殺した時、荘蹻起義が起きた。『荀子(議兵篇)』はこう言っている『楚は兵が垂沙で敗れ、唐蔑が死に、荘蹻が挙兵して、その国土が三四に分裂した。』
挙兵した荘蹻の声勢が非常に大きかったため、楚の官吏は鎮圧ができなかった。『韓非子(喩老篇)』は『荘蹻が境内で盗(反乱軍)となり、吏はこれを禁じることができなかった。これは政治の乱れである(此政之乱也)』と言っている。
荘蹻は楚国を三四に分裂させただけでなく、楚都鄢郢にも攻め入った。『呂氏春秋(季冬紀介立篇)』に『荘蹻が郢を暴した(荘蹻之暴郢)』とあり、しかもこの事件を『秦が長平を包囲した戦い』と並べて語っている。長平の戦い(東周赧王五十五年・前260年)は戦国時代において最も規模が大きな戦いで、殺傷の被害も最多であり、秦軍に生き埋めにされた趙軍の捕虜は四十万人にも及ぶ。『呂氏春秋』が荘蹻の暴を長平の戦いと同列にしているということから、荘蹻の挙兵がとても大きな規模で、楚国の貴族に対して激しい戦闘を行ったことが想像できる。」
「しかし後に荘蹻は自分の階級を裏切り、衛鞅、楽毅、田単と肩を並べる用兵を得意とした将軍になってしまった(『荀子議兵篇』)。荘蹻は滇池まで攻め入って王を称することになる。」
 
このように『戦国史』における荘蹻は、始めは民衆勢力の指導者でしたが、後に滇池雲南を攻めて王を称しています。
しかし『史記西南夷列伝(巻百十六)』では滇池で王を称す荘蹻を「楚威王時代の将軍荘蹻」「荘蹻は楚荘王の苗裔(後裔)である」と書いています。これを見ると荘蹻は貴族(王族)であり、時代も異なるようです(『戦国史』によると、垂沙の戦いがあったのは懐王の時代で、荘蹻が西南に進出するのは頃襄王の時代です。頃襄王は懐王の子です。『戦国史』は『史記』の「威王」を「頃襄王」の誤りとしています)
西南夷列伝』の注(索隠)には「荘蹻は楚荘王の弟で、盗(賊。反乱者)になった者」ともあります。楚荘王は春秋時代の国君です。
 
荘蹻が民衆の指導者だったのか、貴族出身の将軍だったのか、はっきりした回答はありません。あるいは民衆の指導者だった荘蹻と西南に進出した荘蹻は別の人物だったのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。