戦国時代75 東周赧王(十三) 雍氏の戦い 前300年

今回は東周赧王十五年です。
 
赧王十五年
300年 辛酉
 
[] 『史記田敬仲完世家』『六国年表』『資治通鑑』によると、この年、秦の涇陽君が質(人質)として斉に行きました。『史記秦本紀』は前年に書いています。
 
[] 秦の華陽君羋戎(秦宣太后の弟)が楚を攻めて大勝し、三万人を斬首しました。楚将景缺を殺して襄城を取ります。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記楚世家』は斬首された数が「二万人」になっていますが、『六国年表』では「三万人」です。『秦本紀』には斬首した数の記述がありません。
また、『史記秦本紀』では「新城が攻略された」となっていますが、恐らく「襄城」の誤りです。
 
秦を恐れた楚懐王は太子横を質(人質)にして斉に送り、和を請いました。
 
[] 秦の樗里疾が死にました。
秦は趙人楼緩を丞相に任命しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記六国年表』は魏冄(魏冉)が相になったと書いています。
『穰侯列伝(巻七十二)』を見ると、まず楼緩が相になり、その後、魏冉が相になりました。以下、『穰侯列伝』からです。
趙人の楼緩が秦の相となったことは、趙にとって不利でした。そこで趙は仇液(または「仇郝」「机郝」)を秦に派遣して、魏冉を相にするように勧めることにしました。
仇液が出発する時、客の宋公(または「宋交」「宋突」)が仇液に言いました「(魏冉を相にすることに)秦が同意しなかったら、(相の位にいる)楼緩が必ず公を怨みます。そこで公は楼緩にこう言うべきです『公のために、秦(秦王)には急がないように伝えます(国君の命なので、魏冉を相に任命するように秦王に進言しますが、急いで相にする必要はないという態度をとります)。』趙は魏冉がすぐ相になることを求めていないという姿を秦王が見たら、暫くは公の意見(魏冉を相にすること)に同意しないはずです。こうすれば、公の進言が成立しなくても(魏冉を相に立てるように勧めて拒否されても)、楼子に徳(恩)を与えることができ、もし事が成っても(楼緩が廃されて魏冉が相になっても)、魏冉が公を徳とします(公に感謝します)。」
仇液はこれに従いました。
秦は楼緩を免じて魏冉を相にしました。
『戦国策趙策三』にもほぼ同じ話があります。
資治通鑑』は五年後の東周赧王二十年(前295年)に「楼緩の相を免じ、魏冉に代えた」としています。
 
[] 『史記韓世家』によると、この年、韓の太子嬰が死にました。公子咎と公子蟣蝨(『戦国策・韓策二』では「幾瑟」)が太子の位を争います。
この時、蟣蝨は人質として楚にいました。蘇代(『戦国策韓二』では「冷向」)が韓咎(公子咎)に言いました「蟣蝨は楚に流されており、楚王は彼を帰国させたいと思っています(蟣蝨を韓の太子に立てるつもりです)。今、楚兵十余万が方城の外(楚の北境の外)にいます。公はなぜ楚王が万室の都(万戸の大邑)を雍氏(韓領)の傍に造るようにしむけないのですか。そうすれば韓は必ず兵を起こして雍氏を援けに行きます。その将になるのは公しかいません。公が韓楚の兵を使って蟣蝨を奉じ、国に迎え入れれば、(蟣蝨が太子になったとしても)蟣蝨は必ず公の言を聞くようになり、楚韓国境の領土を公に封じるはずです。」
韓咎はこの計に従いました(但し蟣蝨を迎え入れてはいません)
楚が雍氏に邑を築いたおかげで韓咎は韓と楚の国境を守る大軍の将となり、大きな力を持つようになりました。
 
続けて『韓世家』からです。
楚が雍氏を包囲しました。
東周赧王三年(前312年)にも楚が韓の雍氏を包囲しました。
史記甘茂伝(巻七十一)』によると東周赧王九年(前306年)頃にも楚が韓の雍氏を包囲し、甘茂の説得によって秦が韓を援けています(東周赧王九年・前306年参照)
雍氏は頻繁に韓・楚の戦場となっていたようです。
東周赧王八年(前307年)には『史記周本紀』から楚の雍氏攻撃に関する記述を紹介しました。
 
『韓世家』の注(集解)は、『周本紀』の記述をこの年(東周赧王十五年300年)の事としています。
『今本竹書紀年』もこの年に「楚が韓の雍氏に入り、楚人が敗れた」と書いています。
 
『韓世家』に戻ります。
楚が雍氏を包囲したため、韓は秦に救援を求めました。しかし秦は兵を送らず、公孫昧を韓に派遣しました。
韓の公仲が公孫昧に問いました「子(あなた)は秦が韓を援けると思いますか?」
公孫昧が答えました「秦王の言はこうです『南鄭か藍田を通って楚に兵を出し、公(公仲。韓軍)を待つ。』(どちらも遠回りなので)公の望みにはかなわないでしょう。」
公仲が「本当にそうすると思いますか?」と問うと、公孫昧はこう言いました「秦王はかつての張儀の故智(以前の計謀)を真似するはずです。楚威王が梁(魏)を攻めた時、張儀は秦王にこう言いました『楚と共に魏を攻めたとして、もし魏が破れて楚に帰順してしまったら、韓ももともと魏と同盟しているので、秦が孤立してしまいます。よって、秦は兵を出して魏を惑わし(魏を援けるふりをして実際は援けず)、魏と楚を大戦させるべきです。その間に秦は西河の外の地を取ることができます。』今の秦もあの時と同じで、表面上は韓を援けると言いながら、実は陰で楚と関係を改善しています。秦軍が到着したら、公(韓)(秦の援軍が来ると思っているので)必ず楚を軽視して開戦するでしょう。しかし楚は秦が韓を援けないと知っているので、迷わず公と戦います。もしも公が楚に勝ったら、秦は公と共に楚を凌駕し、三川(韓と周領。周天子の都があります)に武威を張ってから兵を還します。もしも公が楚に勝てなかったら、楚が三川の守りを固めるので(楚が三川を支配下に置くので)、公(韓)は援軍を得られなくなります。私は秘かに公を心配しています。司馬庚(または「司馬唐」)が秦と郢(楚都)の間を三往復し、甘茂も昭魚(楚相)と商於で会っています。彼等は璽を取るため(韓に出兵した楚の印璽を撤回させるため。楚に撤兵させるため)と言っていますが、実際には密約があるようです。」
公仲が恐れて「それでは、どうするべきだ?」と問いました。
公孫昧が言いました「公はまず韓の事を考えてから秦の事を考え、まず自分の事を考えてから張儀の事を考えるべきです(まず韓を救う計を考えてから、張儀が魏を惑わした計について考えるべきです)(韓を援けるためには)公は国を挙げて斉楚と同盟するべきです。そうすれば斉楚は公に国を委ねます(原文「斉楚必委国於公」。『戦国策韓二』では「秦必委国於公解伐」となっており、文脈的にはこちらの方が正しいようです。「韓が斉楚と同盟したら、秦がつけいる隙がなくなるので、秦も公仲に国を委ねて楚の攻撃を解かせるはずだ」という意味になります)。公が憎んでいるのはあくまでも張儀(が得意とした詐術陰謀)であり、秦を無視することはできません(陰謀を憎んだとしても、秦との関係を絶つことはできません。斉楚と同盟して韓を救えば、秦の陰謀を退けることになりますが、秦との関係を失うことはありません)。」
公仲が忠告に従ったため、楚は雍氏の包囲を解きました。
 
韓の後継者に関して『韓世家』からです。
蘇代(公子咎の党です)が秦宣太后の弟羋戎(羋が姓、戎が名。秦の新城君。楚人)に言いました「公叔伯嬰(『史記索隠』によると韓襄王の子で、蟣蝨と公子・咎の兄弟。既に死んだ太子嬰を指します。太子が生きていた時の事を振り返って書いているようです)は秦楚が蟣蝨を韓に帰国させることを恐れています。公はなぜ韓に代わって楚に別の質を求めさせないのですか(楚に蟣蝨を帰国させて、別の人質を求めさせるべきです)。もしも楚王がそれに従って質子(蟣蝨)を韓に還すようなら、公叔伯嬰は秦楚が蟣蝨を重視していないと判断し(蟣蝨を重視しているなら人質を手離さないはずです)、必ず韓を挙げて秦楚と同盟します。そうすれば秦楚は韓に迫って魏を窺うことができるので、魏氏は(秦楚を懼れて)斉と同盟せず、斉は孤立することになります。(もしも楚が質を韓に還さなかったら)公は楚にいる質子を秦に送るように求めてください。楚がそれに従わなかったら、(楚が蟣蝨を重視していることになるので)(伯嬰)が楚を怨みます。その結果、韓が斉魏と共に楚を包囲し、楚は(秦の援護を得るために)(羋戎)を尊重するようになります。公が秦楚から重んじられている立場を使って韓に徳()を積めば、公叔伯嬰は国を挙げて公に接するでしょう。」
蘇代は蟣蝨の帰国を妨げるために様々な計を用いました。その結果、蟣蝨は楚から韓に帰ることができず、太子(公叔伯嬰)が死ぬと公子咎が太子に立てられました。
『六国年表』は翌年に「公子咎を太子に立てた」としています。
 
[] 『史記韓世家』によると、斉王と魏王が韓を訪問しました。『六国年表』は翌年に書いています。
 
[] 『史記趙世家』によると、武霊王が中山を攻め、北は燕代、西は雲中九原に至る地を占領しました。
『秦本紀』『六国年表』『資治通鑑』とは異なります(前年参照)
 
[] 『今本竹書紀年』によると、斉の薛侯(恐らく孟嘗君田文)が魏に来て魏王と釜邱で会しました。
 
[] 『華陽国志蜀三』によると、この年、秦昭襄王が子の綰を蜀侯にしました(前年参照)
 
 
 
次回に続きます。