戦国時代76 東周赧王(十四) 楚懐王の拘留 前299年

今回は東周赧王十六年です。
 
赧王十六年
299年 壬戌
 
[] 趙武霊王は呉娃子(孟姚)が産んだ少子何を溺愛していたため、自分が生きている間に即位させることにしました。
五月戊申(二十六日)、武霊王が東宮で大朝(盛大な朝会)を開き、少子何に国を譲りました。即位した新王を恵文王といいます。
新王が廟見(即位時に祖廟を参拝すること)の礼を終えて朝廷に臨みました。大夫は全て新王の前で臣と称します。
肥義が相国として新王を補佐しました。
 
武霊王は自ら「主父」と号しました。「主父」というのは国主の父という意味です。
主父は子に国内を治めさせるため、胡服を着て士大夫と共に西北の胡地に進攻しました。雲中、九原から南下して秦都咸陽を襲うつもりです。
主父はまず趙の使者のふりをして秦に入り、様子を探りました。秦の地形や秦王の為人を観察します。
趙の使者に会った秦王はそれが主父だとは気が付きませんでしたが、使者が去ってからその偉貌が人臣のものではないと思い、追手を派遣しました。
しかし主父は既に関を通過しています。
後に趙の使者について調査した結果、それが主父だったと知り、秦人は大いに驚きました。
 
[] 斉王と魏王が韓で会しました。
 
[] 秦が楚を攻めて八城を取りました。
史記秦本紀』には「秦が将軍羋戎に楚を攻めさせて新市を取った。斉が章子を、魏が公孫喜を、韓が暴鳶を送って共に楚の方城を攻め、唐昩を取った」とあります。唐昩は東周赧王十四年(前301年)に殺された楚将のはずです。『秦本紀』の記述は二年前の戦いと混乱しているようです(二年前、『戦国史』の記述参照)
 
[] 楚懐王が秦に捕えられました。以下、『資治通鑑』と『史記楚世家』からです。
まず秦昭襄王が楚懐王に書を送りました。その内容はこうです「以前、寡人と王は兄弟の約束をして黄棘で盟を結び、王が太子を質として秦に入れたため、友好な関係を築くことができました。ところが太子は寡人の重臣を虐げて殺し、謝罪することなく逃走しました。そのため、寡人は怒りを収めることができず、兵を送って君王の辺(重丘や襄城)を侵したのです。最近、君王はまた太子を質として斉に送り、和を求めたと聞きました。寡人と楚は国境を接しており、かねてから婚姻の関係を結んで長い間親しくしてきました。しかし今は秦と楚の関係が悪化したため、諸侯に号令することもできません。寡人は君王と武関で直接対面し、盟を結んで去りたいと思います。これが寡人の願いです。執事(楚君)の意見をお聞かせください。」
 
楚王は躊躇しました。会見に参加したら騙される恐れがあります。しかし参加しなければますます秦を怒らせることになります。
昭睢が言いました「行ってはなりません。兵を発して守りを固めるべきです。秦は虎狼の国で、諸侯を併呑しようという野心を持っています。信じてはなりません。」
しかし懐王の子蘭が懐王に勧めて言いました「なぜ秦の歓心を絶つのですか。」
懐王は秦に向かいました。
 
秦王は一人の将軍を秦王に化けさせ、武関に伏兵を置きました。
楚懐王が秦に入ると関を閉めて捕まえ、西の咸陽(秦都)に連れて行きます。
秦は楚懐王に章台宮で秦王を朝見するように強制しました。懐王は国王としての対等な礼ではなく、藩臣の礼をとることになります。昭子の言に従わなかったことを後悔しました。
秦は楚に巫郡と黔中郡の割譲を要求しました。
楚懐王は盟(領地割譲によって講和することを誓う盟)を結ぶように求めましたが、秦王は領地割譲を優先することを要求しました。
楚王が怒って言いました「秦はわしを騙した上に、我が領土を強要するのか!」
楚王が要求を拒否したため、秦人は楚王を拘留しました。
 
楚国内の大臣達が心配してこう言いました「我が王は秦に行って帰ることができず、領地の割譲を要求されている。太子は質として斉にいる。もし斉と秦が共謀したら、楚は国を失うだろう。」
大臣達は国内にいる王子を擁立しようとしました。
しかし昭睢が言いました「王と太子が諸侯において困窮しているのに、王命に背いて庶子を立てるのは相応しくありません。」
そこで偽の訃報を斉に届けました。懐王が死んだことにして太子を帰国させようとします。
 
斉湣王が相に言いました「太子を留めて楚に淮北の地(楚の下東国)を要求するべきだ。」
これは『楚世家』の記述です。『資治通鑑』では、ある人が斉王に「太子を留めて楚に淮北の地を要求するべきです」と進言しています。
斉相が言いました「いけません。もしも郢(楚都)が別の者を王に立てたら、我々は空質(意味のない人質)を擁すことになり、しかも天下において不義を行うことになります。」
ある人(『資治通鑑』では先に意見を述べた人)が言いました「それは違います。もし郢が別の王を立てても、新王に利害を説いて『我が国に下東国(淮北の地)を譲れば、我々は楚王のために太子を殺す。拒否するようなら、三国(『資治通鑑』胡三省注によると、斉、韓、魏)と共に太子を擁立する』と伝えれば、我が国は下東国を得ることができます。」
結局、斉王は相の意見を聴いて太子を楚に帰らせました。
楚人は太子横を迎え入れて国君に立てました。これを頃襄王といいます。
 
史記屈原列伝(巻八十四)』によると、頃襄王は弟の子蘭を令尹に任命しました。
子蘭は懐王に秦へ入ることを勧めた人物です。楚人は令尹・子蘭を批難しました。
 
史記秦本紀』はこの出来事を秦昭襄王十年(二年後)の出来事としていますが、昭襄王八年の誤りです。『六国年表』『楚世家』とも秦昭襄王八年(楚懐王三十年)に書いています。
 
[] 『史記秦本紀』はこの年に「趙が中山を破り、その君が亡命した。斉で死んだ」と書いています。『六国年表』『資治通鑑』は二年前(東周赧王十四年301年)の事としています。
 
[] 『史記秦本紀』によると、魏の公子・勁と韓の公子・長が諸侯になりました。『索隠』は二人が邑を封じられ、諸侯と同等になったと解説しています。
 
[] 秦王が斉の孟嘗君の賢才を聞き、孟嘗君と交換するために涇陽君を質をして斉に送りました(二年前に記述があります。東周赧王十四年301年参照)
秦に来た孟嘗君は丞相に任命されました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
史記田敬仲完世家』と『六国年表』によると、前年に秦の涇陽君が人質として斉に来ましたが、本年には帰国しています。孟嘗君薛文は本年に秦に入って相になりました。
史記秦本紀』は翌年に秦が孟嘗君を相にしたと書いています。
 
[] 『竹書紀年』(今本古本)は魏の「今王二十年(本年)」で記述を終えています。特に事件はありません。「今王」としているのは、魏王が存命中で諡号がないからです。
 
[] 『史記六国年表』は本年に「斉王と魏王が韓を訪問した」「公子咎を太子に立てた」としていますが、『韓世家』はどちらも前年に書いています。
 
 
 
次回に続きます。