戦国時代77 東周赧王(十五) 鶏鳴狗盗 前298~296年

今回は東周赧王十七年から十九年までです。
 
赧王十七年
298年 癸亥
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の奐(恐らく東周赧王十四年301年に登場した庶長奐)が楚を攻めて八城を取り、楚将景快を斬りました。
 
[] 『史記秦本紀』はこの年に秦が孟嘗君を相にしたと書いていますが、『資治通鑑』は前年の事としています。
 
以下、『資治通鑑』からです。
ある人が秦王に言いました「孟嘗君が秦の相となりましたが、彼は必ず斉を優先し、秦を後に置きます。これは秦にとって危険なことです。」
秦王は楼緩を相に任命しました。
 
二年前の東周赧王十五年(前300年)に樗里子が死んで楼緩が丞相になったので、今回は再任のようです。
しかし『史記秦本紀』は「薛文孟嘗君は金受のために相を罷免された」としています。『史記正義』によると、金受は秦の丞相の姓名です。金受という人物によって丞相の位を奪われたようです。
 
資治通鑑』に戻ります。
秦王は有能な孟嘗君を捕えて殺そうとしました。捕えられた孟嘗君は秦王の幸姫に人を送って助けを求めます。
姫は孟嘗君がもっていた狐白裘(狐の腋の皮で作った高価な大衣)を譲るように要求しました。
しかし孟嘗君は既に狐白裘を秦王に献上してしまったため、要求に応じることができません。
孟嘗君食客に、狗盗(犬の真似をして盗みを行うこと)を得意とする者がいました。その食客が秦の藏に入って狐白裘を盗み出します。
孟嘗君が狐白裘を姫に献上したため、姫は孟嘗君の命乞いをしました。
そのおかげで秦王は孟嘗君を釈放しました。
しかし暫くして後悔した秦王が追手を送りました。
孟嘗君一行は秦都を出て関まで来ていましたが、関の法では鶏が鳴かなければ関門を開いてはならないことになっています。まだ朝早かったため鶏は鳴いていません。その間にも追手は迫っています。
孟嘗君食客に鶏鳴(鶏の鳴き声の真似)を得意とする者がいました。その食客が鶏を真似て声を上げると、野鶏が次々に鳴き始めます。
関門が開かれて孟嘗君は脱出することができました。
 
この故事は孟嘗君食客が豊富だったこと、個人の品徳を重視せず、一芸がある者なら誰でも受け入れていたことを物語っています。
 
[] 『史記田敬仲完世家』『韓世家』『六国年表』によると、魏、斉、韓が共に秦の函谷関を攻めました。
史記孟嘗君列伝(巻七十五)』は秦を怨んだ孟嘗君が指揮を執ったとしています。
 
『魏世家』には「魏が斉、韓と共に函谷関で秦軍を破る」とあります。
『秦本紀』は二年後の秦昭襄王十一年(東周赧王十九年296年)に「斉、韓、魏、趙、宋、中山の五国(中山は趙に属しているので五国になります)が共に秦を攻め、塩氏(鹽氏。または「監氏」)に至って還る。秦は韓に河北(武遂)を、魏に封陵を返還して和す」と書いています。
秦が魏と韓に領土を返した事は、『六国年表』も二年後に書いています。
連合軍が秦への攻撃を開始したのは本年ですが、戦が長引いたため二年後になって講和したのかもしれません(再述します)
 
[] 楚人が秦にこう告げました「社稷の神霊のおかげで、国に新王(頃襄王)が立ちました。」
秦は楚懐王を脅迫しても領土を奪えず、しかも楚が新王を立てたため、怒って武関から兵を出しました。
楚軍は大敗し、五万が斬首され、析と周辺の十五城(併せて十六城)が奪われました。
 
[] 『史記六国年表』によると、この年、黄河渭水が一日絶えました。
 
[] 趙王が弟の勝(公子勝)東武城に封じました。勝は平原君と号します。
平原君は士を愛し、常に数千人の食客を抱えていました。
食客の一人に公孫龍という者がいました。別の場所で紹介します。
 
 

翌年は東周赧王十八年です。
 
赧王十八年
297年 甲子
 
[] 秦に拘留されていた楚懐王が逃走しました。『史記楚世家』からです。
懐王の逃走を知った秦人は楚に通じる道を封鎖しました。
懐王は間道を通って趙に向かいます。
この時、趙主父は代にいました。主父の子恵王が王事を行っていましたが、即位したばかりで秦を畏れたため、楚懐王の受け入れを拒否しました。
懐王は魏に向かおうとしましたが、秦人の追手に捕まって秦に送り返されました。
懐王は秦で病にかかります。

資治通鑑』の記述もほぼ同じですが、『史記秦本紀』はこの年に「楚懐王が趙に奔るが趙は受け入れず、秦に帰って死ぬ。葬(喪。霊柩)を楚に還す」と書いています。実際に懐王が死ぬのは翌年のことです。
 
[] 魯平公が死に、子の緡公(または「湣公」「文公」)賈が立ちました。
史記魯周公世家』は平公の在位年数を二十二年としています。しかし『六国年表』では二年後の東周赧王二十年(前295年)を魯文公元年としているので、平公が死んだ年は翌年(東周赧王十九年296年)にあたり、平公元年は赧王元年(314)なので、平公の在位年数は十九年になります。
 
「緡公」というのは『資治通鑑』の記述です。『世本』は「湣公」と書いており、『史記魯周公世家』『六国年表』『帝王世紀』は「文公」としています。魯では春秋時代後期に文公という諡号があったので、恐らく緡公(または「湣公」)が正しいと思われます。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙主父が新地(趙が中山から奪った地)に行き、代を出ました。
その後、西進して西河で楼煩王に会い、その兵を収めました。
資治通鑑』はこれを翌年に書いています。
 
 
 
翌年は東周赧王十九年です。
 
赧王十九年
296年 乙丑
 
[] 『史記六国年表』によると、彗星が現れました。
 
[] 楚懐王が病にかかり、秦で死にました。
秦は懐王の喪(霊柩)を楚に送りました。
楚人は親戚を失ったように悲しみ、諸侯が秦を批判しました。
 
史記楚世家』はこの事件が原因で秦と楚の関係が絶たれたとしています。
 
楚の秦に対する恨みはとても深く、秦が天下を統一してから反秦勢力の中心になったのは楚出身の項氏(項梁と項羽でした。
 
[] 斉宋が共に秦を攻め、塩氏(鹽氏。または「司塩城」「監氏」)に至って還りました。
秦は韓に武遂を、魏に封陵を還して和を結びました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』は「斉、韓、魏、趙、宋、中山の五国(中山は趙に属すので五国になります)が共に秦を攻め、塩氏に至って還る。秦は韓に河北を、魏に封陵を返還して和す」と書いています(東周赧王十七年298年参照)
史記魏世家』は「秦が河外と封陵を魏に還して和を結んだ」としており、『韓世家』は「秦が韓に河外と武遂を還した」としています。また、『田敬仲世家』は「秦が韓に河外を与えて和し、(斉を中心とした連合軍が)兵を退く」と書いています。
 
楊寛の『戦国史』は連合軍が秦を破った後、「斉魏が勝ちに乗じて燕に進攻し、大勝を収めた。燕の三軍を壊滅させて燕将二人を捕えた」としています。
これは『戦国策燕策一』の「今、斉王は長く主の地位にいますが、自ら消耗しています。南は楚を攻めて五年で蓄えを消費し、西は秦を追い詰めて三年で民を憔悴させ、北は燕と戦い三軍を覆滅させて二将を捕えました。更にまた残った兵を使って南に向かい、五千乗の強宋を占領しようとしています(東周赧王二十九年・前286年に斉が宋を滅ぼします)」という蘇代の言葉が元になっています(『戦国策』では蘇代が燕王・噲に話をしていますが、当時の燕では燕王・噲は既に死に、昭王の時代になっています)
『戦国策』のこの記述からは、斉が燕を攻めたのは秦との戦いが終わってからということはわかりますが、具体的な時間も、韓魏と同盟していたかどうかもはっきりしません。
『戦国策斉策五』にも「斉・燕が戦い、趙氏が中山を兼併した」という記述があるので、趙が中山を滅ぼした時(下述)と同じ頃に斉と燕が戦ったようですが、ここからも斉の燕攻撃に韓と魏が参加していたがどうかはわかりません。
 
[] 『資治通鑑』によると、趙主父が新地(趙が中山から奪った地)に行き、代を出ました。
西進して西河で楼煩王に会い、その兵を収めます。
資治通鑑』胡三省注によると、趙の北には林胡と楼煩の戎族がいます。
史記趙世家』はこれを昨年の事としています。
 
また、『趙世家』はこの年に中山を滅ぼしたと書いていますが、『六国年表』は翌年の事としており、『資治通鑑』も翌年に書いています(翌年再述します)
 
[] 『資治通鑑』によると、魏襄王が死んで子の昭王が立ちました。
史記魏世家』は本年に魏哀王が在位二十三年で死んだとしています。哀王と襄王に関しては東周慎靚王二年(前319年)に書きました。
 
[] 韓襄王が在位十六年で死に、子の釐王咎が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。