戦国時代 公孫龍 白馬は馬にあらず

東周赧王十七年(前298年)に趙王が弟の勝(公子勝)東武城に封じました。勝は平原君と号します。平原君は士を愛したため、常に数千人の食客を抱えていました。

食客の中に公孫龍という者がおり、「堅白同異の辯」を得意としました。「堅白同異の辯」というのは、「離堅白」「合同異」といった事物の認識に対する命題です。
 
公孫龍諸子百家の名家に属します。名家は事物の「名(名分。名目)」と「実(実態)」を明らかにすることを主張した学派です。その誕生には当時の時代背景が大きく影響しています。
周王室が衰退し、春秋時代を経て戦国時代に入ると、ますます旧秩序が失われていきました。旧時代の道徳や概念は既に通用せず、「名」と「実」がかけ離れたものになっています。その代表が天子という「名」をもちながら天子の「実」をもたない周王の存在です。
そこで、当時の思想家達は事物や現象の「名」と「実」を正しくすることで、新たな秩序を形成しようと考えました。
 
例えば儒家は世直しのためにまず「正名」を主張しました。「名を正す」とは、事物や現象に「名」がついたら、「実」がともなっていなければならないという考えです。
儒家は「君臣」「父子」「兄弟」「夫婦」といった人間関係が正しければ社会は混乱しないと考えました。国君は国君らしく臣下を愛し、臣下は臣下らしく国君に仕え、父は父らしく子を愛し、子は子らしく父に仕えるという身分制度を根底にした思想です。この関係が正しければ、国君は国君という名を守り、臣下は臣下という名を守り、父は父という名を守り、子は子という名を守ることができます。しかしもしこの関係が崩れ、国君が国を奪われ、臣下が国君を駆逐し、父が子を愛さず、子が父を敬わなくなったら、国君、臣下、父、子という「名」が「実」をもたなくなり、社会が混乱に陥ってしまいます。
 
儒家の「正名」は個人個人の道徳心を重視した思想と考えることができます。儒家は「仁」「義」といった抽象的な道徳を提唱して、それを守ることで自分の地位や立場をわきまえるように教えました。
 
儒家を真っ向から否定したのが法家です。法家は「仁」「義」といった道徳を基礎とする身分制度を否定し、法という具体的な規則を作って秩序の維持と安定を図るべきだと考えました。法の前では貴族も庶民も関係ありません。
春秋時代後期から各国が成文法を作り始め、旧社会の習慣法から脱却して明確な法によって国民を統治するようになったのも、新しい社会の秩序を構築するために生まれた流れです。
 
このような社会の動きの中で、事物の「名」と「実」の関係をより深く追求したのが名家です。
 「名家」は言葉が持つ意味や意義を明らかにし、日常的に存在している誤った概念を一掃することで、「言葉(名)」と「事物の本質(実)」が正しく一致することを求めました。
「離堅白」と「合同異」は名家が唱えた理論の代表です。
以下、簡単に紹介します。
 
「離堅白」は公孫龍が唱えた「堅白石(堅くて白い石)」という「名」に対する理論です。
石を見た時には、白という色はわかりますが堅いかどうかはわかりません。石を触った時には、石が堅いことはわかりますが、触覚から色を知ることはできません。そこで公孫龍は「堅白石(堅くて白い石)」は一つの石を表す概念ではなく、「堅い石」と「白い石」という二つの概念からなりたっているという結論を出しました。
 
「合同異」というのは、公孫龍と同じ名家に属す恵施が提唱した考えです。公孫龍は一つの事象に存在する複数の概念の分離性(事象は一つでも複数の概念が共存していること。それぞれの概念は独立していること)に焦点を置きましたが、恵施は異なる事象の同異性と相対性(一つの事象には複数の概念が共存しているが、それは異なるだけでなく、共通もしているということ)に焦点を置きました。
例えば「至大には外がなく、これを大一という。至小には内がなく、これを小一という(至大無外,謂之大一。至小無内,謂之小一)」という言葉があります。
「この世で最も大きな物(世界、宇宙、空間)にはそれよりも大きな物はなく、このような物を『大一』と名付ける。逆にこの世で最も小さな物にはそれよりも小さなものはなく、このような物を『小一』と名付ける」という意味で、「小一」は最も規模が小さい粒子と考えることができます。この世に存在する物はどんなに大きくても全て「小一」によって形成されています。「大一」も「小一」によって成立しています。これが異なる概念の共通したところです。但し、一つ一つの「小一」には違いがあり、「小一」が集まって形成された物も同じではありません。
そこでこうとも言っています「大同でありながら小同異を共にする。これを小同異という。万物は全て共通するが全て異なる。これを大同異という(大同而与小同異,此之謂小同異。万物畢同畢異,此之謂大同異)。」
共通性がある物は同類とみなされます。これを「大同」といいます。しかしその中にもそれぞれの特徴があり、その特徴は共通していることもあれば全く異なることもあります。これを「大同」の中の「小同異」といいます。
視野を万物に広げると、万物にも共通性があります。例えばすべての物が「小一(最小単位の粒子)」によって形成されています。よって万物は同じであるといえます。しかし万物の中にもそれぞれの特徴があり、一つの物が持つ特徴が他の物に当てはまらないことがあります。このような万物における同異を「大同異」といいます。
「大一」「小一」「小同異」「大同異」というのは事物には共通している面と異なっている面があることを説明しています。
 
更には「天下の中央は燕の北にあり、越の南にある(我知天下之中央,燕之北,越之南也)」という言葉も残しています。燕は北国で、越は南国なので、北国の北と南国の南というのは正反対に位置します。しかしそこに天下の中央があるというのは、広大な天下には限りがないのでどこでも天下の中央になることができるという意味を表します(地球が丸いという概念があったわけではないと思います)
同じような意味で「天も地も低く、山も沢も平である(天与地卑,山与沢平)」とも言っています。天は高くて地は低く、山は盛り上がっていて沢は窪んでいますが、自分が立つ位置を変えれば高低も凹凸も変わって見えるので、一定したものではないという意味です。
これらは事物の相対性を表しています。
 
そして恵施の結論ともいえる言葉が「広く万物を愛せ。天地は一体である(氾愛万物,天地一体也)」です。
これまで見てきたように、恵施はこの世のあらゆる事象が独自の特徴をもちながらも共通した存在であると考えました。この世がそうである以上、貴賎や大小、厚薄、親疎といった関係は必要ありません。天地とは元々一体なのですから、広く万物を愛するべきだと恵施は訴えました。
 
 
平原君と公孫龍に話を戻します。
平原君は弁舌に長けている公孫龍を賢才とみなして食客にしました。
やがて、孔穿が魯から趙に来ました。孔穿は孔子の子孫で、字を子高といいます。
資治通鑑』胡三省注がここで孔姓について書いています。孔姓は商王朝成湯の子孫です。商王朝は子姓の国ですが、成湯は名を履、字を天乙といったため、後代が「子」に「乙」を加えて孔氏を名乗ったといわれています。春秋時代、宋の孔父が華督に襲われたため、その子孫が魯に奔りました。孔子が魯で生まれたのはそのためです。
 
孔穿は公孫龍と「臧三耳」を論じました。臧というのは奴婢の姓で、「臧には三つの耳がある」という意味です。
公孫龍通変論』には「鶏三足」の話が紹介されています。鶏の足は二本あります。しかし実態のある脚とは別に、「鶏の足」という概念(名称)も存在します。概念としての鶏の足は、一つ、二つといった数字とは関係がありません。実態のある二つの鶏の足と概念としての鶏の足を合わせると、鶏の足は三つになります。
「臧三耳」も同じで、耳という器官は実際に存在する二つの耳と概念(名称)としての耳があるので、合わせると三つになります。
公孫龍は名称として存在する概念と実際に存在する実態は異なると考えました。
 
公孫龍は弁が立つため、孔穿は反論できず、すぐに退散しました。
翌日、孔穿が平原君に会いに行くと、平原君が問いました「昨夕の公孫の言は理屈が通っていました。先生はどう思いますか?」
孔穿が言いました「その通りです。まるで臧(奴婢)に三つの耳ができたようでした。しかし実際には難しいことです。一つ質問させてください。人に三つの耳があるというのは実現が難しく、そもそも真実ではありません。逆に二つの耳があるというのは理解が容易でしかも真実です。あなたは容易な真実に従いますか?それとも困難で真実ではないことに従いますか?」
平原君は返す言葉がありませんでした。
翌日、平原君が公孫龍に言いました「公(あなた)孔子高と事を弁じない方がいいでしょう。彼は理(道理)が辞(弁舌)に勝っており、公は辞が理に勝っています。最後は必ず退けられます。」
 
鄒衍が趙を通った時、平原君が「白馬非馬の説」について公孫龍と議論をさせようとしました。
「白馬非馬」というのは「白馬は馬ではない」という公孫龍を代表する命題です。
「白馬」は「白」という色の概念と、「馬」という動物の概念が一緒になった言葉です。「馬」といったら「黄色い馬」も「黒い馬」も含みますが、「白馬」はあくまでも「白い馬」を指すだけで、「黄色い馬」や「黒い馬」は含みません。よって特定の馬の種類を指す「白馬」は広範囲な「馬」という概念とは異なります。
ここから公孫龍は「白馬は馬ではない」という結論を出しました。
 
しかし鄒子は議論を辞退してこう言いました「辯論とは、異なる種類の主張を明らかにして互いに害すことを防ぎ、異なる概念を明らかにして混乱を除き、自分の意見を述べて主旨を明らかにし、相手に理解させて困惑をなくすためにあります。だから勝った者は自分の意見を守り、負けた者も求めるもの(真理。道理)を得られるのです。このようであるのなら辯論をしてもかまいません。しかしもしも煩雑な文を利用し、言葉を飾って互いを誹謗し、巧みな比喩で趣旨を移し、人を引きつけながら意(真理。道理)に達することができないようなら、大道(学問の道理)を害すことになります。相手に勝つまで弁論を続けるようなやり方は君子の気風を害すので、衍(鄒衍)にはできません。」
公孫龍の主張は役に立たない詭弁に過ぎないので弁論するには値しないと痛烈に批判しています。
その場にいた者は皆、鄒衍を称賛しました。
この後、公孫龍は遠ざけられるようになります。
 
資治通鑑』胡三省注は「最終的には、小辯(詭弁)によって大道を破ることはできない」と評しています。
 
韓非子外儲説左上』にも「白馬非馬」に関する記述があります。
宋の児説は弁論を得意とし、『白馬非馬』の説によって稷下(斉国)の弁者を言い負かしてきました。しかしある日、白馬に乗って関所を通ろうとしましたが、関吏に止められました。児説は(白馬は馬ではないと主張しましたが)馬の税を払ってやっと関を通り抜けることができました。
韓非子では「児説」という人物を登場させていますが、「白馬非馬」説を主張した公孫龍に対する皮肉と批判であることは間違いありません。
 
公孫龍の学説は言葉の概念を明らかにするという点で大きな意義がありましたが、理屈と実態がかけ離れているため、詭弁と評価されることの方が多いようです。