戦国時代78 東周赧王(十六) 趙の内乱 前295年

今回は東周赧王二十年です。
 
赧王二十年
295年 丙寅
 
[] 秦の尉錯(国尉司馬錯が魏の襄城を攻めました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記魏世家』は「秦が魏の襄城を攻略した」と書いています。
 
資治通鑑』胡三省注によると、襄城は魏と韓の国境にあり、しばしば統治者が代わっていました。この時は魏領ですが、韓領だった時もあります。
 
[] 趙主父が斉燕と共に中山を滅ぼし、中山王を膚施に遷しました。
これは『資治通鑑』の記述です。
 
中山という国は資料が豊富ではありません。東周威烈王十八年(前408年)に中山は魏によって滅ぼされましたが、魏の本国から遠く離れているため、後に独立したようです。中国の解放軍出版社『中国歴代戦争年表』は中山国に関して「前408年、魏が中山を滅ぼしたが、中山は間もなく復国し、霊寿に遷都した」と書いています。
 
史記六国年表』『田敬仲完世家』ともに中山が完全に滅亡したのは本年の事としていますが、『趙世家』は前年に書いており、楊寛の『戦国史』も前年としています。
以下、『戦国史』からです。
「前302年、趙武霊王が中山を滅ぼして胡地を攻略するために軍事改革を行い、胡服を着て騎射を学ぶように命じた。前300年から中山に対して連年大挙進攻し、五年の戦いの末、ついに中山を滅ぼした。
同時に趙国は林胡、楼煩を破り、一部の土地を奪って雲中郡と雁門郡を置き、林胡と楼煩を北に移住させた。」
 
趙が中山を滅ぼす前の事が『戦国策中山策』に書かれています。
趙の主父が中山を攻撃しようと思い、様子を探るために李疵を中山に送りました。
李疵は趙に戻るとこう言いました「中山を撃つべきです。主公が攻撃しなければ、天下に後れを取ることになります。」
主父がその理由を問うと、李疵が言いました「中山の国君は車を走らせて窮閭隘巷(貧しい街)に赴き、士を拝しています。その数は七十家に及びます。」
主父が問いました「それは賢君ではないか。なぜ中山を撃つべきなのだ。」
李疵はこう答えました「それは違います。士を抜擢したら民は虚名を求めて本業に心を入れなくなります。賢人を拝したら田を耕す者が怠けて戦士も死を恐れるようになります。このような国が滅びないはずがありません。」
主父は李疵の報告を聞いて中山攻略を決意し、成功しました。
 
史記田敬仲完世家』は「斉が趙の中山討伐を援けた」としており、『六国年表』は「趙が斉、燕と共に中山を滅ぼした」と書いています(『趙世家』は斉と燕の参戦に触れていません。『資治通鑑』の記述は『六国年表』が元になっているようです)
また『趙世家』によると、代を滅ぼして中山王を膚施に移した主父は霊寿(恐らく中山の都)に城を築きました。北地が趙に従い、代に通じる道が開かれます。
 
帰国した主父は論功行賞を行って大赦しました。また全国で五日間の宴を開きました(置酒酺五日)
国君が徳を布いて国中で宴を開くことを「酺」といいます。

趙武霊王(主父)による勢力拡大の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 趙主父が長子章を代に封じました。これを安陽君と号します。田不礼が安陽君の相になりました。
 
この長子が乱を起こします。『史記趙世家』と『資治通鑑』からです。
安陽君は国王となった弟(恵文王)に服すことが不満でした。
李兌が肥義に言いました「公子章は強壮で野心があり(志驕)、徒党が多くて貪欲なので、私心をもっているはずです。しかも田不礼は残忍かつ驕慢です。この二人が一緒になったら必ず陰謀が生まれ、一度事を起こしたら徼幸(幸運)を求めるはずです(幸運を求めて途中であきらめることはありません)。小人が欲をもったら軽慮浅謀となり、目先の利は見えてもその後にある害を顧みることはできず、同類が互いに推しあって共に禍門に入るようになります。難は必ずすぐに訪れます。子(あなた)は責任が重く権勢も大きいので、乱は子から始まり、禍は子に集まるでしょう。子は率先して禍を憂いるべきです。仁者は万物を愛し、智者は禍が形になる前に備えをするものです。仁でもなく智でもないのに、どうして国を治めることができるでしょう。なぜ疾()と称して出仕せず、政権を公子(公叔)に譲って怨府(怨みが集まる場所)、禍梯(禍の階段。禍が拡大する原因)となることから逃げないのですか。」
肥義が言いました「それはできない。以前、主父が王(恵文王)を義()に託してこう言った『汝の度(決まり。意志。主張)を変えてはならない。汝の慮(考え。心意)を変えてはならない。汝の世が終わるまで(死ぬまで)一心(忠心)を堅守せよ。』義は再拝して主父の命を受け、それを記録して保管した。不礼(田不礼)の難を畏れて籍(主父の命の記録)を忘れるとしたら、これほど大きな変(変心)はないだろう。進んだら(宮内や朝廷に入ったら)厳命を受けながら、退いたらそれを全うしないようなら、これほど大きな負(裏切り)はないだろう。変負の臣は刑から逃れられないものだ。諺にはこうある『死者が蘇ったとしても、生者は慚愧しない(「死者復生,生者不愧」。死者が生き返ったとしても慚愧しなくていいように生きなければならないという意味)。』私には約束した言がある。(主父に対して後ろめたい思いをしないためにも)私は自分の言を守る。この身を守ることを考えるわけにはいかない。貞臣は難が訪れても節を見せ、忠臣は累(巻き添え)が訪れても行動を明らかにするものだ。子(汝)は私に忠告を送ったが、私には自分の言が先にあるので、それを棄てるわけにはいかない。」
李兌は「わかりました。子(あなた)(あなたがなすべきことに)勉めてください。私が子に会えるのも今年まででしょう」と言うと、泣いて退出しました。
 
李兌はしばしば公子成に会いに行って田不礼に備えるように勧めました。
肥義も信期(高信)に言いました「公子と田不礼を警戒するべきだ。彼等は義(私)に対して善言を口にするが、実は凶悪であり、その為人は子としても臣としても相応しくない。姦臣が朝廷にいたら国の残(害)となり、讒臣が宮中にいたら主の蠹(柱を喰う虫)になるという。彼等は貪婪で欲が大きく、内は主父(の同情や歓心)を得ているが、外では横暴である。矯令(偽の君命)を利用して驕慢なので、勝手に一旦の命を発することも容易にできるだろう。そうなったら禍が国に及んでしまう。私はそれを憂いて夜も眠れず、飢えても食事を忘れるほどだ。盗賊(恵文王の命を狙う者)の出入に備えなければならない。今後、王を招く者がいたら必ず私が先に会い、私が身代わりになる。安全だとわかってから王を送り出すことにしよう。」
信期は同意して「素晴らしい意見を聞くことができました」と言いました。
 
ある日、主父が群臣を集めて恵文王を朝見させました。安陽君も来朝します。主父は恵文王の傍で群臣や宗室(宗族)の恵文王に対する礼を見守りました。
主父はかつて長子章を太子にしました。後に呉娃を得ると、数年間も宮内から出ないほど寵愛しました。その呉娃が公子何を生んだため、太子章を廃して公子何を太子に立てました。これが恵文王です。ところが呉娃が死ぬと恵文王に対する寵愛も薄れ始め、逆に元太子を憐れむようになりました。
恵文王に朝見した時の長子章は元気がなく、北面して弟に対して臣と称しました。主父はそれを見て同情し、趙を二分して公子章を代王に立てる計画を考えました。
しかし決心がつかないまま先延ばしにされます。これが乱を招きます。
 
後日、主父が恵文王と共に沙丘に巡遊しました。二人は異なる宮殿に住みます。
この機を利用して公子章と田不礼が乱を起こしました。徒衆を率いた公子章と田不礼は主父の命と偽って恵文王を招きます。
肥義が安全を確認するために先に行って殺されました。
それを知った高信(信期)が恵文王を奉じて公子章と戦います。公子成と李兌も趙都邯鄲から沙丘に駆けつけ、四邑の兵を率いて公子章に対抗しました。
公子章は破れて主父がいる宮殿に奔ります。主父は宮門を開けて公子・章を迎え入れました。
 
公子成と李兌は主父の宮殿を包囲しました。
やがて、公子章と田不礼は殺され、その党も滅ぼされました。
 
やっと王室が安定しましたが、公子成と李兌が相談してこう言いました「我々は公子章が乱を起こしたために主父を包囲してしまった。兵を解いて帰国したら、我々は族誅されるだろう。」
二人は主父が住む宮殿の包囲を解かず、「宮中の者で遅れて出てきた者は処刑する!」と宣言しました。
宮中の人々は主父を棄てて全て帰順します。主父も外に出ようとしましたが、二人はそれを許可せず、食事も与えませんでした。困窮した主父は雀鷇(雀等の小鳥)を捕まえて食べましたが、三カ月余が経ち、沙丘宮で餓死しました。
主父が死んだのを確認してから諸侯に喪が発せられました。
優柔不断によって乱を招き、命を落とした主父は天下の笑い者になりました。
 
公子成が相になり、安平君と号しました。『資治通鑑』胡三省注によると、安平というのは地名ではなく、難を平定して国を安んじたという意味のようです。
李兌が司寇になりました。
当時、恵文王がまだ若かったため、公子成と李兌が専政します。
 
史記趙世家』はここで「主父が死し、恵文王が立つ」と書いていますが、恵文王は主父の生前に即位しているので、この年は恵文王四年になります。
 
[] 秦が楼緩の相を免じ、魏冉に代えました(東周赧王十五年300年参照)
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が楚に粟五万石を贈りました。
 
 
 
次回に続きます。