戦国時代79 東周赧王(十七) 白起登場 前294~289年

今回は東周赧王二十一年から二十六年までです。
 
赧王二十一年
294年 丁卯
 
[] 秦が魏を解で破りました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の向寿が韓を攻めて武始を取りました。
また、左更白起が韓の新城を取りました。
 
『白起列伝(巻七十三)』では、本年、白起が左庶長に任命されてから新城を攻撃しています。白起が左更になるのは翌年の事なので、『秦本紀』の「左更・白起」は恐らく「左庶長」の誤りです。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の五大夫爵位礼が魏に出奔しました。詳しい内容はわかりませんが、礼は後述する呂礼という人物かもしれません(東周赧王二十七年288年参照)
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の任鄙(恐らく秦武王に仕えた力士と同一人物。東周赧王八年307年参照)が漢中守になりました。
 
[] 『史記六国年表』は、「斉で田甲が王を脅迫し(田甲劫王)、相薛文孟嘗君が逃走した」と書いています。
孟嘗君列伝(巻七十五)』にも記述があります。
孟嘗君が斉で相になって数年後、ある人が斉湣王に「孟嘗君が乱を成そうとしています」と讒言しました。
ちょうどこの頃、田甲が斉湣王を脅迫しました。田甲の事件の詳細は不明です。
湣王は孟嘗君が田甲に指示を出したと疑いました。孟嘗君は禍を恐れて逃走します。
 
以前、孟嘗君は舍人魏子に食邑の租税を徴収させたことがありました。しかし魏子は三回食邑に行っても成果がありませんでした。孟嘗君がその理由を問うと、魏子が言いました「一人の賢者を見つけたので、あなたの名を借りて収入を全て彼に与えました。だから成果がないのです。」
孟嘗君は怒って魏子を退けました。
 
孟嘗君が湣公に疑われて逃走すると、魏子から税を与えられた賢者が上書して孟嘗君の無罪を訴えました。賢者自ら命をかけて誓うことを請い、宮門で自刎します。
驚いた湣王は事件を調査し、孟嘗君に謀反の陰謀がないことを知りました、
湣王は再び孟嘗君を召しましたが、孟嘗君は病と称して辞退し、薛孟嘗君の邑)に帰ることを願います。湣王はこれに同意しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が燕に鄚と易の地を与えました。
 
 
 
翌年は東周赧王二十二年です。
 
赧王二十二年
293年 戊辰
 
[] 韓の公孫喜と魏が秦を攻めました。魏将の名は伝わっていません。
史記魏世家』によると、魏は韓を援けて秦を攻めたようです。また、『韓世家』は「韓が公孫喜に命じて周と魏を率いて秦を攻めさせた」としています。
 
資治通鑑』はこの年に「魏の穰侯(魏冉)が左更白起を秦王に推挙し、向寿に代わって兵を率いさせた」と書いています。
これは『史記・穣侯列伝(巻七十二)』の「昭王十四年(本年)、魏冉が白起を推挙して向寿の代わりに将とし、韓・魏を攻撃させた」という記述が元になっています。
しかし『白起列伝(巻七十三)』では前年(秦昭王十三年)に白起が新城を攻撃しており、『秦本紀』でも白起は前年から兵を率いています(前年参照)
 
資治通鑑』胡三省注は白起について「白が姓で、春秋時代の秦に白乙丙という人物がいた」と解説しています。
 
白起は魏と韓の連合軍を伊闕で破り、二十四万人を斬首して公孫喜を捕虜にしました。
更に白起は五城を攻略します。
秦王は白起を国尉に任命しました。
 
『戦国策中山策』に伊闕の戦いに関する記述が二つあります。以下抜粋します。
一、韓と魏が共に兵を発し、大軍を動員しました。これに対して、秦の白起が率いる兵は両軍の半数にも達しません。しかし白起は伊闕で二国の軍を大破し、大盾が流れるほどの大量な血を流して二十四万人を斬首しました。
二、伊闕の戦いでは、韓は兵が少なかったため魏に頼り、先に兵を動かそうとしませんでした。しかし魏も韓の精鋭に頼っていたため、韓を先鋒にさせようとしました。両軍ともそれぞれ自国の利を優先しています。それを知った白起は疑兵を設けて韓軍に対峙させ、別に精鋭を選んで魏の不意を撃ちました。その結果、魏軍が破れると韓軍も自ら壊滅しました。白起は勝ちに乗じて追撃し、大功を立てることができました。

伊闕周辺の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 秦王が楚王に書を送りました。『史記楚世家』からです。
秦王が書を送って楚にこう伝えました「楚が秦に背いたので、秦は諸侯を率いて楚を討伐し、一旦の命(一日の生命)を争うつもりだ(決戦して勝敗を明らかにするつもりだ)。王が士卒を整え、一戦によって満足することを願う。」
楚頃襄王は恐れて秦と和親することにしました。
 
 
 
翌年は東周赧王二十三年です。
 
赧王二十三年
292年 己巳
 
[] 楚襄王(頃襄王)が秦から婦人を迎え入れて講和しました。
 
資治通鑑』の編者司馬光は、父(楚懐王)を殺して子(楚頃襄王)を脅迫した秦の無道を批難し、父が殺されたことを我慢して仇讎の国と婚姻を結んだ子の無能を嘆いた上でこう言っています「もしも楚の国君が道を修めて人材を得ていれば、秦がいくら強くてもここまで屈辱を得ることはなかったはずだ。」
既に時代は秦の独壇場となりつつあります。
 
[] 秦の魏冉が病のため職を退き、客卿燭寿が丞相になりました。
資治通鑑』胡三省注は「燭が姓。春秋時代の鄭に大夫燭之武という人物がいた」と解説しています。
 
[] 『史記秦本紀』にると、秦の大良造白起が魏を攻めて垣を取りましたが、暫くして魏に還しました(東周赧王二十五年290年に垣を蒲坂、皮氏と交換します)
また、秦が楚を攻めて宛を取りました。
但し、『史記韓世家』『六国年表』『資治通鑑』は翌年に「韓(楚ではありません)を攻めて宛を取った」としています。秦は楚と講和したばかりなので、恐らく『秦本紀』の誤りです。
 
 
 
翌年は東周赧王二十四年です。
 
赧王二十四年
291年 庚午
 
[] 秦が韓を攻めて宛を攻略しました(前年参照)
資治通鑑』胡三省注によると、宛はかつて申伯の国でした。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の左更司馬錯が軹と鄧を取りました(翌年再述します)
 
[] 秦が燭寿を罷免し、再び魏冉を丞相に任命しました。
魏冉は穰と陶に封じられ、穰侯とよばれるようになります。
 
これは『資治通鑑』の記述で、『史記穣侯列伝(巻七十二)』が元になっています。
『秦本紀』にはこの年に「魏冄(魏冉)(丞相から)罷免する」「魏冄を陶に封じて諸侯にする」とありますが、『六国年表』を見ても魏冉が罷免されたのは前年の事なので、恐らく『秦本紀』が誤りです。
 
[] 秦が公子市を宛に、公子悝を鄧に封じました。
これは『史記・秦本紀』と『資治通鑑』の記述です。
史記秦本紀』の注(索隠)は悝について「号を高陵君という。初めは彭に封じられた。昭襄王の弟である」と書いており、市を「涇陽君」としています、『資治通鑑』胡三省注には「高陵君の名は顕、涇陽君の名は悝」とあります(東周赧王十年305年参照)
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が南行(地名)に築城しました。
 
 
 
翌年は東周赧王二十五年です。
 
赧王二十五年
290年 辛未
 
[] 魏が河東の地(安邑、大陽、蒲阪、解等)百里を、韓が武遂の地二百里を秦に譲りました。
 
[] 魏の芒卯(芒が姓、卯が名)が詐(智詐)によって重用されるようになりました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、城陽(詳細不明)が秦に入朝しました。
同時に東周君も秦に入朝しました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が垣(二年前参照)を魏の蒲坂、皮氏と交換しました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦王が宜陽に行きました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙梁(趙の将)が斉と共に韓を攻め、魯関(魯陽関)の下に至りました。
 
 
 
翌年は東周赧王二十六年です。
 
赧王二十六年
289年 壬申
 
[] 秦の大良造白起、客卿司馬錯が魏を攻めて軹に至り、大小六十一城を取りました。
これは『資治通鑑』の記述で、『史記六国年表』が元になっています。胡三省注によると、「大良造」は大上造の中で優れた者です。大上造は秦の爵位で十六級にあたります。
 
史記秦本紀』には前年(東周赧王二十五年291年)に「秦の左更司馬錯が軹と鄧を取った」とあり、本年に「司馬錯が垣(前年。魏に還したばかりです)、河雍を攻め、橋を落として占領した」とあります。六十一城については書かれていません。
『白起列伝(巻七十三)』によると、伊闕の戦い(東周赧王二十二年293年)があった年に白起が左更から国尉(『正義』によると太尉)になり、黄河を渡って韓の安邑以東を取り、乾河に至りました。その翌年(赧王二十四年292年)、白起が大良造になり、魏を攻めて大小六十一城を攻略しました。更に翌年(赧王二十五年291年)、白起が客卿司馬錯と共に垣城を攻めて攻略しました。
このようにそれぞれの記述が少しずつ異なります。
 
[] この年に儒学の大家孟子(孟軻)が死んだといわれています。
上海辞書出版社の『中国歴史大辞典』、台湾の作家・柏楊による『中国史年表』、中国国際広播出版社の『戦国史話』等がこの年を孟子の卒年としています。但し、楊寛の『戦国史』は孟子の生卒年を約前390年から前305年としています。
 
 
 
次回に続きます。