戦国時代79 東周赧王(十七) 白起登場 前294~289年
今回は東周赧王二十一年から二十六年までです。
赧王二十一年
前294年 丁卯
[一] 秦が魏を解で破りました。
また、左更・白起が韓の新城を取りました。
『白起列伝(巻七十三)』では、本年、白起が左庶長に任命されてから新城を攻撃しています。白起が左更になるのは翌年の事なので、『秦本紀』の「左更・白起」は恐らく「左庶長」の誤りです。
ちょうどこの頃、田甲が斉湣王を脅迫しました。田甲の事件の詳細は不明です。
以前、孟嘗君は舍人・魏子に食邑の租税を徴収させたことがありました。しかし魏子は三回食邑に行っても成果がありませんでした。孟嘗君がその理由を問うと、魏子が言いました「一人の賢者を見つけたので、あなたの名を借りて収入を全て彼に与えました。だから成果がないのです。」
孟嘗君は怒って魏子を退けました。
驚いた湣王は事件を調査し、孟嘗君に謀反の陰謀がないことを知りました、
翌年は東周赧王二十二年です。
赧王二十二年
前293年 戊辰
[一] 韓の公孫喜と魏が秦を攻めました。魏将の名は伝わっていません。
しかし『白起列伝(巻七十三)』では前年(秦昭王十三年)に白起が新城を攻撃しており、『秦本紀』でも白起は前年から兵を率いています(前年参照)。
白起は魏と韓の連合軍を伊闕で破り、二十四万人を斬首して公孫喜を捕虜にしました。
更に白起は五城を攻略します。
秦王は白起を国尉に任命しました。
『戦国策・中山策』に伊闕の戦いに関する記述が二つあります。以下抜粋します。
一、韓と魏が共に兵を発し、大軍を動員しました。これに対して、秦の白起が率いる兵は両軍の半数にも達しません。しかし白起は伊闕で二国の軍を大破し、大盾が流れるほどの大量な血を流して二十四万人を斬首しました。
二、伊闕の戦いでは、韓は兵が少なかったため魏に頼り、先に兵を動かそうとしませんでした。しかし魏も韓の精鋭に頼っていたため、韓を先鋒にさせようとしました。両軍ともそれぞれ自国の利を優先しています。それを知った白起は疑兵を設けて韓軍に対峙させ、別に精鋭を選んで魏の不意を撃ちました。その結果、魏軍が破れると韓軍も自ら壊滅しました。白起は勝ちに乗じて追撃し、大功を立てることができました。
伊闕周辺の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
秦王が書を送って楚にこう伝えました「楚が秦に背いたので、秦は諸侯を率いて楚を討伐し、一旦の命(一日の生命)を争うつもりだ(決戦して勝敗を明らかにするつもりだ)。王が士卒を整え、一戦によって満足することを願う。」
楚頃襄王は恐れて秦と和親することにしました。
翌年は東周赧王二十三年です。
赧王二十三年
前292年 己巳
[一] 楚襄王(頃襄王)が秦から婦人を迎え入れて講和しました。
『資治通鑑』の編者・司馬光は、父(楚懐王)を殺して子(楚頃襄王)を脅迫した秦の無道を批難し、父が殺されたことを我慢して仇讎の国と婚姻を結んだ子の無能を嘆いた上でこう言っています「もしも楚の国君が道を修めて人材を得ていれば、秦がいくら強くてもここまで屈辱を得ることはなかったはずだ。」
既に時代は秦の独壇場となりつつあります。
[二] 秦の魏冉が病のため職を退き、客卿・燭寿が丞相になりました。
また、秦が楚を攻めて宛を取りました。
翌年は東周赧王二十四年です。
赧王二十四年
前291年 庚午
[一] 秦が韓を攻めて宛を攻略しました(前年参照)。
『資治通鑑』胡三省注によると、宛はかつて申伯の国でした。
[三] 秦が燭寿を罷免し、再び魏冉を丞相に任命しました。
魏冉は穰と陶に封じられ、穰侯とよばれるようになります。
『秦本紀』にはこの年に「魏冄(魏冉)を(丞相から)罷免する」「魏冄を陶に封じて諸侯にする」とありますが、『六国年表』を見ても魏冉が罷免されたのは前年の事なので、恐らく『秦本紀』が誤りです。
[四] 秦が公子・市を宛に、公子・悝を鄧に封じました。
『史記・秦本紀』の注(索隠)は悝について「号を高陵君という。初めは彭に封じられた。昭襄王の弟である」と書いており、市を「涇陽君」としています、『資治通鑑』胡三省注には「高陵君の名は顕、涇陽君の名は悝」とあります(東周赧王十年・前305年参照)。
翌年は東周赧王二十五年です。
赧王二十五年
前290年 辛未
[二] 魏の芒卯(芒が姓、卯が名)が詐(智詐)によって重用されるようになりました。
同時に東周君も秦に入朝しました。
翌年は東周赧王二十六年です。
赧王二十六年
前289年 壬申
『史記・秦本紀』には前年(東周赧王二十五年・前291年)に「秦の左更・司馬錯が軹と鄧を取った」とあり、本年に「司馬錯が垣(前年。魏に還したばかりです)、河雍を攻め、橋を落として占領した」とあります。六十一城については書かれていません。
『白起列伝(巻七十三)』によると、伊闕の戦い(東周赧王二十二年・前293年)があった年に白起が左更から国尉(『正義』によると太尉)になり、黄河を渡って韓の安邑以東を取り、乾河に至りました。その翌年(赧王二十四年・前292年)、白起が大良造になり、魏を攻めて大小六十一城を攻略しました。更に翌年(赧王二十五年・前291年)、白起が客卿・司馬錯と共に垣城を攻めて攻略しました。
このようにそれぞれの記述が少しずつ異なります。
上海辞書出版社の『中国歴史大辞典』、台湾の作家・柏楊による『中国史年表』、中国国際広播出版社の『戦国史話』等がこの年を孟子の卒年としています。但し、楊寛の『戦国史』は孟子の生卒年を約前390年から前305年としています。
次回に続きます。