戦国時代81 東周赧王(十九) 桀宋の滅亡 前287~285年

今回は東周赧王二十八年から三十年までです。
 
赧王二十八年
287年 甲戌
 
[] 秦が趙を攻め、新垣と曲陽を取りました。
これは『資治通鑑』の記述です。胡三省注は「趙」を「魏」としており、『史記魏世家』にも「秦が魏の新垣と曲陽の城を攻略した」とあります。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙梁(趙将)が斉を攻めました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦王が漢中に行き、その後、上郡、北河に行きました。
 
 
 
翌年は東周赧王二十九年です。
 
赧王二十九年
286年 乙亥
 
[] 斉が宋を滅ぼしました。以下、『史記宋微子世家』と『資治通鑑』からです。
以前、宋城の隅で雀が𪄟(鸇。鷹の一種)を生むという怪事がありました。
宋の史(太史に属す卜筮を担当する官)が卜って言いました「吉です。小が巨(大)を生みました。必ず天下に覇を称えることができます。」
喜んだ宋康王は兵を起こして滕を滅ぼし、薛(斉の孟嘗君封地を攻撃しました。
更に東は斉を破って五城を取り、南は楚を破って三百里の地を奪い(『戦国策宋策』には楚の淮北の地を奪ったとあります)、西は魏軍にも勝利します。
宋は斉魏にも匹敵する国となり、康王は霸者になる自信を抱きました。
 
康王は速く霸者になりたいと思い、血を入れた韋囊(皮の袋)を高い所に吊るして的とし、矢を放って「天を射た」と称しました。また、地を笞で打ったり、社稷(土地と穀物の神)を破壊して焼き払いました。鬼神も威服させたという姿を示すためです。
 
康王は酒色にも溺れました。群臣が諫言するとすぐに矢を射ます。
宮殿で長夜の宴を開いた時は、室内の者が万歳を唱えると堂上の全ての人がそれに応じて万歳を唱え、堂下の人々もそれに応じ、門外の人々も応じ、万歳の声が国中に響き渡りました。
国民は康王を恐れているため、万歳を唱えない人はいません。
天下の人々は康王を「桀宋」とよびました。桀は夏王朝最後の王となった暴君です。
諸侯は「宋が紂商王朝最後の王。宋は商王朝の子孫です)の悪行を恢復した。誅殺しなければならない」と言って斉に訴えました。
 
そこで斉湣王が兵を起こして宋を討伐しました。宋の民は離散し、城も守りを棄てます。
宋王は魏に奔りましたが、温で死にました。
こうして宋国が滅亡しました。
 
『宋微子世家』は「斉湣王が魏、楚と共に宋を攻めて王偃(康王)を殺し、宋を滅ぼしてその地を三分した」と書いていますが、『資治通鑑』は魏楚の出兵に触れていません。
また、『宋微子世家』は「王偃(康王)四十七年」の事としていますが、『六国年表』では「四十三年」になります。
 
史記田敬仲完世家』には当時の斉と秦の関係について書かれています。但し、『戦国策』は『韓策三』に記載しており、「韓が宋を攻めた」としています。『戦国策』が斉を韓と誤って書いたのか、韓も斉の宋討伐に参加したのか、全く異なる時に韓が宋を攻撃したことがあったのか、詳細はわかりません。
以下、『田敬仲完世家』からです。
(『戦国策』では「韓」)が宋を討伐したため、秦昭王(「戦国策」では「秦王」)が怒って言いました「わしは新城や陽晋を愛すように宋を愛している。韓聶(恐らく斉将。但し『戦国策』では「韓珉」という名で韓将)はわが友なのに、なぜわしが愛する宋を攻めるのだ。」
蘇代が斉のためにこういいました「韓聶が宋を攻めるのは王(秦王)のためです。強大な斉(『戦国策』では「韓」。しかし韓は強国とはいえないので、恐らく『史記』の「斉」が正しいと思われます。以下同じです)に宋の援けが加われば(宋を併合できれば)、楚魏が必ず斉を恐れて西の秦に仕えます。その結果、王は一兵を煩わせることなく、一士を傷つけることもなく、事を起こさずに安邑(魏の旧都)を割譲させることができます(下述)。これは韓聶が王のために願っていることです。」
秦王が言いました「斉の動向を予測できないのが心配だ。合従をしたかと思えば連衡しているが(一従一衡)、これをどう解釈する?」
蘇代が言いました「天下の国状を全て斉に理解させることができますか(斉も秦の動向を予測できません。原文「天下国令斉可知乎」)?しかし、斉が宋を攻めたことに関しては、(斉が宋を占領してから)秦に仕えればそれが万乗の国(秦)の援けとなり、秦がある西を向かなければ(秦と協力しなければ)、宋治(宋の政治。『戦国策』では「宋地」)が不安定になることを知っています。中国(中原。秦・斉以外の諸国)の白頭游敖(遊説)の士は知恵を絞って斉秦の交りを裂き、車を西に走らせている者は一人として斉を善く言うことがなく、車を東に走らせている者は一人として秦を善く言うことがありません。これはなぜでしょうか。皆、斉と秦の同盟を欲していないからです。なぜ晋楚には智があるのに、斉秦は愚なのでしょう(晋・楚が斉・秦の関係を割こうとしているのに、斉・秦はなぜそれに惑わされるのでしょう)。晋楚が同盟すれば必ず斉秦を謀り、斉秦が同盟すれば必ず晋楚を謀るようになります(晋・楚に隙を見せないためにも、斉と秦が対立するべきではありません)。このことを善く考えて事を決してください。」
秦王は「わかった(諾)」と言いました。
こうして斉が宋を討ち、宋王は亡命して温で死にました。
その後、斉は南進して楚の淮北を割き、西を侵して三晋を攻め、周室を併呑して天子になろうとしました。泗上の諸侯である鄒魯の国君は皆、斉に対して臣と称します。斉の勢いは諸侯を恐れさせました。
 
[] 秦の司馬錯が魏の河内(秦の河東)を攻撃しました。
魏が安邑(魏の旧都)を秦に譲って和を請い、秦は奪った魏人を帰国させました。
 
史記秦本紀』によると、秦は安邑の魏人を帰国させてから、爵位を与えることを条件に河東(安邑)へ移住する民を募りました。また、罪人を釈放して河東に遷しました。
 
[] 秦が韓を夏山で破りました。
 
[] 『史記趙世家』によると、韓徐(恐らく趙将)が斉を攻めました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が涇陽君(昭襄王の同母弟。『史記索隠』によると名は市。『資治通鑑』では名は悝)を宛に封じました。
但し東周赧王二十四年(前291年)にも「公子市を宛に封じる」という記述がありました。
 
[] 『史記秦本紀』の注(集解)に「牡馬が牛を生んで死んだ」という怪事が書かれています。
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、趙の公主が死にました。注(索隠)に「恐らく呉娃の娘で恵文王の姉」とあります。
 
 
 
翌年は東周赧王三十年です。
 
赧王三十年
285年 丙子
 
[] 秦昭王が楚頃襄王と宛で会い、和親を結びました。
また、秦王が趙恵文王と中陽で会いました。
 
[] 秦の蒙武が斉を攻めて九城を取りました。
資治通鑑』胡三省注によると、蒙氏は東蒙主(東蒙山で祭祀を主管する者)が蒙山を氏にして生まれました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が河東に九県を置きました。
 
[] 斉湣王は宋を滅ぼしてから驕慢になり、南は楚を侵し、西は三晋を侵し、二周を併合して天子になろうとしました(前年参照)
狐咺が言を正して諫言したため檀衢(檀台に通じる大通り)で斬られ、陳挙も直言して東閭(東門)で殺されました。
資治通鑑』胡三省注は孤氏について「春秋時代の晋に狐突、狐毛、狐偃という父子がいた」と解説しています。
 
この頃、燕昭王は日夜、民を按撫して国を豊かにしていました。
斉が乱れていると知り、楽毅と斉討伐を謀ります。
楽毅が言いました「斉にはまだ霸国の余業があります。その地は大きく人も多いので、単独で攻めるのは困難です。王が斉を討伐するのなら、趙および楚、魏と結ぶべきです。」
楽毅が趙に行き、他の使者も楚と魏を訪れました。更に趙を使って斉討伐の利を秦に伝えます。
諸侯は斉王の驕暴を嫌っていたため、争って燕に協力することにしました。
 
[] 『史記趙世家』にはこの年に「相国楽毅(燕将)が趙、秦、韓、魏、燕を率いて斉を攻め、霊丘を取った」とありますが、『燕召公世家』『田敬仲完世家』『六国年表』『資治通鑑』等には見られません。
『趙世家』では翌年も連合軍が斉を攻撃しています。あるいは本年に出兵して霊丘を取り、翌年、更に大進撃したのかもしれません(翌年再述)
 
[] 『華陽国志』によると、この年、秦が蜀侯(東周赧王十五年300年参照)の謀反を疑って誅殺しました。この後、蜀侯を封じず、蜀守が置かれるようになります。
周が滅亡してから、秦孝文王が李冰を蜀守に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。