戦国時代82 東周赧王(二十) 楽毅の斉討伐 前284年

今回は東周赧王三十一年です。
 
赧王三十一年
284年 丁丑
 
[] 燕が諸侯と協力して斉を攻撃しました。『資治通鑑』を中心に見ていきます。
燕王が斉討伐のために国内の兵を総動員し、楽毅を上将軍に任命しました。
資治通鑑』胡三省注に、「上将軍は春秋時代の元帥にあたる」と解説されています。
 
史記燕召公世家』は当時の燕国を「国が殷富(繁栄して富むこと)し、士卒が出征を望んで戦を恐れないようになった(楽軼軽戦)」と書いています。燕昭王の善政によるものです。
 
秦の尉斯離が兵を率いて東進し、三晋の軍と共に斉討伐に参加しました。
尉は秦の官で、斯離が名、または斯が姓、離が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、斯は蜀の西南夷に属す部族で、部族名が氏になりました。
 
趙王が相国の印を楽毅に授けました。楽毅が燕および秦趙の兵を指揮して斉に進撃します。
 
斉湣王も国中の兵民を集めて対抗しました。
両軍は済西(済水の西。斉地)で戦います。
その結果、斉軍が大敗しました。
 
戦勝後、楽毅は秦韓の兵を還らせ、魏軍を分けて旧宋国の地(宋は斉に滅ぼされました)を攻略させ、趙軍には河間の地を取らせました。
韓の兵を還らせたのは本国が斉から遠いためです。魏に宋地を、趙に河間を取らせたのは、それぞれの国に近いからです。
史記楽毅列伝(巻八十)』では済西の戦いの後、「諸侯の兵を帰国させ、燕軍の楽毅だけが斉軍を追撃して臨淄(斉都)に至った」としており、魏と趙の動きは省略されています。
 
史記楚世家』には、「楚王が秦、三晋、燕と共に斉を攻めて淮北を取る」とあり、『田敬仲完世家』も「燕、秦、楚、三晋が合謀し、それぞれ鋭師を出して斉を攻撃し、済西で斉軍を破った」としていますが、『燕召公世家』『資治通鑑』等には楚が斉を攻めたという記述がなく、逆に、斉を援けるために淖歯を派遣しています(後述)
また、『趙世家』は前年に「相国楽毅が趙、秦、韓、魏、燕を率いて斉を攻め、霊丘を取った」と書き、本年にも「燕昭王が趙に来た。趙が韓、魏、秦と共に(燕が抜けています)斉を攻め、斉王は敗走した。燕だけが深入りし、臨菑を取った」としています。連合軍による遠征は前年に始まったのかもしれません(前年参照)
 
楽毅は燕軍を率いて斉の地深くに長駆しました。
劇辛が言いました「斉は大国で燕は小国です。今回、諸侯の助けによって斉軍を破ることができたので、この機に乗じて周辺の城を取り、自国を大きくすることこそ長久の利となります。それなのに城邑を通り過ぎるだけで攻撃せず、深入りすることを目的にしたら、斉に損失を与えられないばかりか、燕にとっても利益がなく、深い怨みを結ぶだけです。これでは必ず後悔することになります。」
楽毅が言いました「斉王は戦の功績を誇って驕慢になり、下の者と謀ることができず、賢良を排斥して諂諛を信任している。しかも政令が暴虐なので百姓に怨まれている。今、斉軍は既に壊滅した。この機に乗じて深く攻め入れば、斉の民は必ず叛し、内から禍乱が生まれる。そうなれば斉を奪うことができる。もしこの機に乗じなければ、斉王にかつての非を悔いる時間を与えてしまう。もし過ちを改めて下の者を大切にし、民を撫恤するようになったら、斉を図るのが難しくなってしまう。」
楽毅は進軍を続けました。
斉人は大混乱に陥り、斉湣王は逃走します。
楽毅は斉都臨淄に入って宝物祭器を奪い、燕に輸送しました。
史記燕召公世家』によると、燕軍は斉の宮室宗廟を焼き払いました。
 
燕と斉の戦いが『呂氏春秋慎大覧権勲篇』にあります。
昌国君楽毅が五国の兵を率いて斉を攻めました。
斉は触子を将にして天下の兵を済上(済水沿岸)で迎え撃たせます。
斉王は速戦を欲していたため、使者を送って(燕軍と対峙している)触子を罵倒し、「速く戦わなければ汝の同類(親族)を滅ぼし、墓を掘り起こす」と伝えました。
触子はそれを恨みに思い、斉軍の敗北を願うようになります。
斉軍が天下の兵と戦いを始めると、触子はすぐに金(銅鑼。鉦)を叩いて退却を命じました。
敗北した斉軍を天下の兵が追撃します。触子は一乗の車に乗って逃走し、行方が分からなくなりました。
達子が残った兵を率いて秦周(地名)に駐軍しました。しかし兵を労う物資がありません。そこで人を送って斉王に金銭を請いました。
すると斉王は怒ってこう言いました「汝等のように生き残った豎子の類に金銭を与えられると思うか。」
斉軍は燕軍と戦って大敗し、達子は戦死しました。その結果、斉王は莒に奔ることになりました。
 
資治通鑑』に戻ります。
燕王は自ら済水まで来て楽毅軍を慰労しました。論功行賞を行い、酒宴を開いて将兵をねぎらいます。
楽毅は昌国君に封じられました。
資治通鑑』胡三省注によると、「昌国」とは「国を昌大(盛大)にする」という意味です。
 
燕王は楽毅を斉に留めてまだ燕に帰順していない城を攻略させました。
 
斉王は衛に亡命しました。
衛君は宮殿を斉王に譲り、臣と称して必要な物を供給します。
ところが、斉王の態度があまりにも不遜だったため、衛人が怒って攻撃しました。
斉王は衛を去って鄒や魯の地に奔りましたが、やはり驕慢だったため、鄒も魯も受け入れませんでした。
斉王は莒に奔りました。
資治通鑑』胡三省注が莒について解説しています。莒は西周武王が少昊の子孫にあたる嬴姓の茲輿を封じた国です。始めは計斤城を都とし、春秋時代に莒に遷りました。二十三代で楚に滅ぼされ、後に斉領になりました。
 
楚が淖歯を将にして斉を援けさせました。淖歯が斉相になります。
ところが淖歯は燕と共に斉の地を分割することを考えました。そこで斉湣王を捕えて譴責します。淖歯が問いました「千乗と博昌(どちらも地名)の間の方数百里で血の雨が降って人々の衣服を濡らしたという怪事を王は知っているか?」
斉王は「知っている」と答えました。
淖歯が問いました「嬴(どちらも地名)の間で地が裂けて泉が湧いたことを王は知っているか?」
斉王は「知っている」と答えました。
淖歯が問いました「誰かが闕に向かって泣いたのに、泣いている者を探しても見つけられず、そこを去るとまた泣き声が聞こえてきたという怪事を王は知っているか?」
斉王は「知っている」と答えました。
淖歯が言いました「天が血の雨を降らせて衣を濡らしたのは天の警告だ。地が裂けて泉が湧いたのは地の警告だ。誰かが闕に向かって泣いたのは人の警告だ。天人が全て警告したのに、王はそれを戒めとすることができなかった。誅を受けないわけにはいかない。」
淖歯は斉湣王を鼓里(莒の地名。斉廟の近く)で殺しました。
 
史記田敬仲完世家』によると、淖歯は湣王を殺してから燕と共に斉の地と宝器を分け合いました。『史記楚世家』に「楚王が淮北を取る(上述)」とあるのは、この時の事かもしれません。
 
楊寛の『戦国史』はこの戦いの結果についてこう書いています。
「この戦役で、秦国はかつて斉が奪った宋の定陶を奪い、後に定陶は魏冉の封地となった。魏は宋地の大部分を得た(『荀子議兵篇』)。趙は済西の多くの地を得た。楚も機に乗じて宋に取られた淮北の地を取り返した。魯のような小国も斉の徐州を得ることができた(『呂氏春秋孝行覧首時篇』)。」

楽毅の斉討伐に関係する地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 燕の楽毅は晝邑(または「畫邑」。斉西南の近邑)の王蠋(または「王」)が賢人だと聞き、軍中に命令して晝邑の周辺三十里に立ち入ることを禁止しました。
その後、人を送って王蠋を招きましたが、王蠋は辞退しました。
燕人が言いました「来なければ晝邑を屠する(皆殺しにする)。」
王蠋が言いました「忠臣は二君に仕えず、烈女は二夫に嫁がない(忠臣不事二君,烈女不更二夫)ものです。斉王が私の諫言を用いなかったので、私は退いて野を耕していました。国が破れて主が亡んだので(国破君亡)、私も生き続けることはできません。しかも燕は兵(武器。武力)によって脅迫しています。不義によって生き永らえるくらいなら、死んだ方がましです。」
王蠋は樹で首を吊って死にました。
 
燕軍が戦勝に乗じて斉領を駆け巡ると、斉の城邑は次々に壊滅しました。
楽毅は燕軍を整えて略奪を禁止します。また、斉の逸民(隠れた賢士)を探して礼遇しました。斉領での賦税を軽減し、暴令を除いて旧政(以前の制度)に戻したため、斉民が喜んで帰順します。
 
楽毅は諸軍を各方面に進出させました。
左軍は膠水を渡って膠東、東莱(旧莱国)に進みます。
右軍は黄河、済水に沿って阿(東阿)、鄄に進み、魏軍と合流します。
後軍は北海に沿って千乗を按撫します。
楽毅が率いる中軍は臨淄に駐留して斉都を安定させました。
 
楽毅は斉桓公管仲を臨淄郊外で祀り、賢者の閭を表彰し、晝邑に王蠋の墓を造りました。
斉人で燕から食邑を封じられた者は二十余君、燕都薊で爵位を与えられた者は百余人に上ります。
六カ月の間で斉の七十余城が燕に降り、全て燕の郡県になりました。
 
史記燕召公世家』は「斉の城で燕に降らなかったのは聊、莒、即墨だけで、他の城は全て六年にわたって燕に属すことになった」としています。
 
[] 秦王、魏王、韓王が京師で会しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』は「秦王が魏王と宜陽で、韓王と新城で会した」としています。
しかし『魏世家』には「魏王が秦王と西周(『正義』によると王城)で会した」とあります。
『韓世家』は「秦昭王と西周で会し、秦を助けて斉を攻める」と書いています。
 
まとめると、『資治通鑑』『秦本紀』『魏世家』は会見を斉攻撃の後とし、『韓世家』は前にしています。また、『秦本紀』だけは会見をした場所が西周(京師)ではなく宜陽と新城になっています。
 
[] 『史記六国年表』によると、この年に趙が斉の昔陽を取りました。『趙世家』は翌年の事としています(再述します)
 
 
 
次回に続きます。