戦国時代83 東周赧王(二十一) 斉襄王即位 前283年(1)

今回は東周赧王三十二年です。二回に分けます。
 
赧王三十二年
283年 戊寅
 
[] 秦と趙が穰で会しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』は「楚王と鄢で会し、また穰で会した」としており、『六国年表』も秦と会したのは趙ではなく楚としています。
『楚世家』には「楚王が秦昭王と鄢で会し、その秋、再び秦王と穰で会した」と書かれています。
『趙世家』には記述がありません。
 
[] 秦が魏の安城を占領しました。
秦軍は魏都大梁に至って還りました。
 
史記秦本紀』によると、秦が兵を還したのは燕と趙が魏に援軍を送ったためです。
もしも『資治通鑑』が書いているように穣で秦と会盟したのが趙だとしたら、秦が魏を攻めた時、趙が魏を援けたというのは不可解です。恐らく『史記』の記述が正しく、秦と会盟したのは楚だと思われます。
 
[] 斉襄王が即位します。『史記田敬仲完世家』と『資治通鑑』からです。
斉で淖歯の乱(前年。楚の淖歯が斉湣王を殺した事件)が起きた時、湣王の子法章は姓名を変えて莒の太史敫の家で傭(使用人)になりました。
太史敫の娘は法章の容貌を見て常人ではないと思い、秘かに衣食を渡しました。やがて二人は私通します。
 
王孫賈(『戦国策・斉策六』によると十五歳です)が湣王(閔王)に従っていましたが、王とはぐれてしまったため家に帰りました。
母が言いました「汝が朝早くに家を出て晚になって帰ってくる時、私はいつも門に身を寄せて外を眺めています(汝の帰りを待ち望んでいます)。汝が暮に家を出て帰ってこない時は、私は閭(里門。街の門)に身を寄せて外を眺めています(安心できないので家を出て閭門で待っています)。しかし、汝は王に仕える身です。王が去って行方が分からなくなってしまったのに、汝はなぜ帰って来たのですか。」
王孫賈は家を出て市に向かい(湣王が殺されたと知って)、人々に大声でこう呼びかけました「淖歯が斉国に乱をもたらして湣王を殺した。私と共に淖歯を誅殺しようと思う者は右肩を出せ(袒右肩)!」
市にいた四百人が王孫賈に従って淖歯を攻撃しました。淖歯は誅殺されます(これは『資治通鑑』の記述で、『戦国策・斉策六』が元になっています。『田敬仲完世家』では、「淖歯が莒城を去ってから、斉国の亡臣が集まって湣王の子を探した」としています)
 
斉の亡臣が湣王の子を探して即位させようとしました。
法章は誅殺されるのではないかと懼れていたため長い間隠れていましたが、やっと「私は湣王の子だ」と宣言して身分を明かしました。
莒人が法章を王に立てます。これを襄王といいます。
 
襄王は莒城を保って燕に対抗し、国中に「王が莒で即位した」と宣言しました。
斉都臨淄は楽毅に占拠されているため、斉の遺臣は莒に集まり始めました。
 
[] 趙が斉を攻めました。『史記趙世家』からです。
秦が再び趙と共に兵を出し、繰り返して斉を攻撃したため、斉人が憂いました。
そこで蘇厲が斉のために趙王に書を送りました「古の賢君についてこう聞いたことがあります『徳行が海内に布かれず、教順(教化道徳)が民人に行き届かず、四季の祭祀を鬼神がしばしば享受できないという状況なのに、甘露が降り、時雨が至り、穀物が豊作で(年穀豊熟)、民に疾疫がなかったら、衆人(通常の人)が善しとしても、賢主だけは深く考えたものだ』。
今、足下(あなた)の賢行功力(功労)は、頻繁に秦に施されているわけではありません。足下の怨毒積怒(怨恨)が斉に対して元から深く根差しているわけでもありません。秦と趙が連合して韓に出兵を強要していますが、秦は本当に趙を愛しているのでしょうか?本当に斉を憎んでいるのでしょうか?物事が度を過ぎたら、賢主はよく考えなければなりません。秦は趙を愛しているのではなく、斉を憎んでいるのでもありません。韓を亡ぼして二周を併呑したいため、斉を餌に天下の協力を誘っているのです。
秦は功を成せないことを心配しているので、兵を出して魏趙に協力を強要しています。天下が秦を畏れることを心配しているので、質(人質)を送って信としています。天下がすぐに背くことを心配しているので、韓で兵を集めて天下を威嚇しています。言葉では與国(同盟国。趙等)に徳を与えるといっていますが、実際は(秦のために出兵して)空虚になった韓を襲うのが目的です。秦の計はこれらのことを前提に立てられています。事象とは勢(形勢。情勢)が異なっても、患(禍。悪い結果)とすることは同じです。今まで楚が久しく討伐を受けていましたが、最近亡んだのは中山です。今の斉も久しく討伐を受けていますが、亡ぶのは韓に違いありません。斉を破ったら王(趙王)と六国(斉以外の五国の誤り?)がその利を分けることができます(これが諸侯を動員する餌です)。しかし韓が亡んだら、秦一国が専有することになります。二周を収めて西で祭器(周王室の宝物)を取り、秦が全て独占します。奪った田地から得る賦税を徴収して功績の大小を計った時、王が得る利(諸侯と共に斉を分割して得た利)と秦が得る利(斉・韓・二周から得た利)ではどちらが多いと思いますか?
説士(遊説の士)はこう言っています『韓が三川の地(河南の地)を失い、魏が晋国(河北の地。安邑、河内)を失ったら、市朝(市場。人が集まる場所)に変化がなくても禍が既に迫っている。』燕が斉の北地を占領し、沙丘、鉅鹿(どちらも趙の地)への距離を三百里も縮めました。韓の上党から邯鄲(趙都)までは百里しかないので、(秦が韓を滅ぼしてから)燕と秦が王(趙)の河山(領土)を狙ったら、三百里の小道を通るだけで往来できてしまいます。秦の上郡は挺関に近く、楡中までは千五百里の距離があります(楡中は上郡の北に位置します。恐らく趙都から千五百里もあるという意味です)。秦が三郡の兵を使って王の上党(趙の南西部。韓に接しています)を攻めたら、羊腸(太行山の坂道)の西、句注(句注山。趙の北西部)の南は王のものではなくなります。句注を越えて常山(趙の北部。燕国の近くです)を破り、そこを守ったら、三百里で燕とつながります。そうなったら代の馬も胡の犬も東下できず、昆山の玉も運べず、三宝とも王のものではなくなります。王が久しく斉を討伐し、強秦に従って韓を攻めたら、禍は必ず訪れます。王はこれを孰慮するべきです。
そもそも、斉が討伐を受けているのは王(趙)に仕えていたからです(斉は趙と同盟していたために秦の討伐の対象になっています)。天下(秦を中心にした連合軍)が行動しているのは王(趙)を狙っているからです(秦は斉に帝号を勧めた時、趙攻撃を持ちかけました。秦は元々趙を狙っています。東周赧王二十七年288年参照)。燕と秦が約成(盟を結ぶこと)して兵を出す日は近いでしょう。五国(秦、斉、韓、魏、燕)が王の地を三分(分割)しようとしましたが、斉は五国の約(約束。五国で趙を分けるという盟約)を破って王の患に殉じました(趙王のために禍を受けることになりました)。斉が西に兵を向けて強秦に対抗したので、秦は帝号を廃して講和を求め、高平、根柔を魏に還し、巠分、先兪を趙に還したのです。斉が王に仕える(斉と趙が同盟する)のが最上の姿なのに、今は斉に罪を着せています。これでは今後、天下で王に仕えている者も関係を固く守ろうとはしなくなるでしょう。王はよく考えるべきです。
王は天下(主に秦)と共に斉を攻撃していますが、これを止めれば天下は必ず王を義とするでしょう。斉は社稷を奉じて厚く王に仕え、天下も必ず王の義を重んじます。王が天下を率いて秦と親善し、もし秦が暴を用いたら、王が天下を率いてそれを制御すれば、一世の名寵(名声栄誉)が王によって掌握されます。」
趙は秦がもちかけた斉への出兵を辞退しました。
 
この年、趙王が燕王と会見しました。
 
秦との出兵を断った趙ですが、廉頗が兵を率いて斉の昔陽を占領しました。
『趙世家』『廉頗列伝(巻八十一)』に記述があります。しかし『六国年表』は前年に「趙が斉の昔陽を取った」と書いています。『資治通鑑』には前年、本年とも記述がありません。
 
また、『廉頗列伝』では「昔陽」ではなく「陽晋」となっています。
中国の解放軍出版社『中国歴代戦争年表』は、「陽晋は山東で昔陽は河北なので、昔陽が誤り」としています。
『廉頗列伝』の注(索隠)によると、陽晋はかつて衛の地で、後に斉領になりました。斉の国境の邑のようです。
前年に燕を中心とする連合軍が斉を攻撃し、斉は聊、莒、即墨の三邑以外の地を失ったはずですが、陽晋(または「昔陽」)のような国境の邑には、燕の支配から逃れていた場所も存在していたようです。
 
『廉頗列伝』はこの戦いの後、「廉頗が上卿になり、その勇気が諸侯に知れ渡った」としています。
 
 
 
次回に続きます。