戦国時代84 東周赧王(二十二) 衛嗣君 前283年(2)

今回は東周赧王三十二年の続きです。
 
[] 趙王が楚の「和氏の璧」を得ました。
 
資治通鑑』胡三省注が和氏の璧について簡単に紹介しています。
かつて楚の卞和という者が玉璞(加工する前の玉。原石)を得たため、楚厲王に献上しました。ところが、厲王が玉人(玉を加工する技術者)に見せると、玉人は「ただの石です」と言いました。
厲王は卞和が嘘をついたと判断し、左足を刖(足を切断する刑)に処しました。
楚武王が即位すると、卞和はまた玉璞を献上しました。しかしやはり玉人が「ただの石です」と言ったため、武王も嘘だと思って右足を刖に処しました。
楚文王が即位した時、卞和は玉璞を抱えて荊山の下で泣きました。それを聞いた文王は玉人を送って玉璞を磨かせました。その結果、宝玉を得ることができました。この宝玉が「和氏の璧」です。
出典は『韓非子和氏』です。
 
秦昭王は和氏の璧が趙にあると聞き、秦が十五城を割くことで璧を譲るように要求しました。
趙王は躊躇しました。同意しなければ強盛な秦を怒らせることになります。しかし同意しても秦に騙される恐れがあります。
趙王が藺相如に問うと、藺相如が言いました「秦が城を使って璧を求めているのに王が同意しなかったら、曲(否)は我が国にあります。我が国が璧を与えても秦が城を与えなかったら、曲は秦にあります。二つの策(方法)を較べるなら、秦に曲を負わせるべきです。臣に璧を奉じて秦に行かせてください。もし秦が城を譲らなかったら、臣は璧を損なうことなく帰国します(完璧而帰)。」
趙王は藺相如を派遣しました。
藺相如が秦に入って秦王に謁見しました。秦王には趙に城を譲るつもりがありません。
藺相如は秦王を騙して璧を取り返し、従者に渡してこっそり間道から趙に帰らせました。藺相如自身は秦に留まります。
秦王は藺相如を賢人と認め、礼遇して帰国させました。
趙王は藺相如を上大夫にしました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、藺氏は韓献子の玄孫康が藺を食采にしたために生まれた氏です。
史記藺相如列伝』によると、藺相如は趙人で、趙の宦者令繆賢の舍人でした。身分が高いとはいえません。それが上大夫になったというのは大抜擢でした。
 
尚、藺相如が璧を無事に持ち帰った故事から「完璧」という言葉ができました。
日本語の「完璧」は「欠点がない様子、状態」を表しますが、中国では「完璧帰趙」という四字熟語で、「元の状態のまま持ち主に返す、持ち主のもとに戻る」という意味で使われるのが一般的です。
史記藺相如列伝』が「完璧帰趙」の故事を詳しく書いていますが、別の場所で紹介します。

戦国時代 完璧

 
[] 衛嗣君が死に、子の懐君が立ちました。
 
嗣君は他人の微隠(隠し事)を探ることが好きでした。
ある県令が褥(敷布団)を動かした時、下の蓆が破れていました。
それを知った嗣君が県令に蓆を下賜したため、県令は「嗣君は神ではないか」と思って大いに驚きました。
またある時、人を関市に送って官員に金を贈りました。賄賂です。その後、関市の官員を招き、「関市を通った客が汝に金を贈ったであろう。汝は速やかにそれを還せ」と言いました。
関市の官員は恐れ入りました。
 
嗣君は泄姫を寵愛し、如耳を重用しました。しかし二人が寵愛を利用して自分を陥れることを心配します。そこで賢人の薄疑を任用して如耳に匹敵させ、魏妃を尊重して泄姫に匹敵させました。
嗣君は安心して「これで互いに牽制(相参)させることができる」と言いました。
 
後に荀子はこう評しました。
「衛の成侯(二代前の衛君)と嗣君は財を集めて細かいことにこだわった国君(聚斂計数之君)であり、民心を得ることができなかった。子産は民心を得ることができたが、政を為す(英明な政治を行うこと)には至らなかった。管仲は政を為したが、礼を修めるには至らなかった。
礼を修めた者は王になり、政を為した者は強盛になり、民心を得た者は安定し、聚斂(財を集めること)の者は亡ぶのである。」
 
資治通鑑』胡三省注がここに登場した姓氏の解説をしています。
泄姓は春秋時代の鄭に大夫洩駕がおり、陳にも大夫洩冶がいました。
如は衛大夫の姓です。当時、魏王に如姫がいました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が魏冉の丞相職を免じました。
 
 
 
次回に続きます。