戦国時代86 東周赧王(二十四) 楚の出来事 前281年

今回は東周赧王三十四年です。
 
赧王三十四年
281年 庚辰
 
[] 秦が趙を攻めて石城を攻略しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙王が衛の東陽(旧衛領。この時は趙領)に入り、黄河を決壊させました。南岸は魏の地です。その後、趙軍が魏を攻撃しました。
洪水が起きて漳水が溢れました。
 
[] 秦の穰侯魏冉(魏冄)が再び丞相になりました。
史記秦本紀』によると、罪人を赦して穰(魏冉の食邑)に遷しました。穣の人口を増やすためです。
 
『趙世家』には「魏冉が趙に来て相になった」とありますが、恐らく誤りです。『六国年表』も秦の事としています。
 
[] 『史記楚世家』にこの頃の楚の出来事が書かれています。
楚に弱弓で雁を射ることを得意とする男がいました。それを聞いた頃襄王が招いて話をすると、男が言いました「小臣は(小さい雁)(小さい野鳥)を射るのが好きなだけです。これは小さい矢を放つ技術に過ぎません。大王に何を話せばいいのでしょう。楚の広大な地と大王の賢才があれば、射落とすのはそのような小物ではありません。昔、三王は道徳を射落とし、五霸は戦国(好戦的な国)を射落としました。秦、魏、燕、趙は雁です。斉、魯、韓、衛は青首(小鳥)です。騶(鄒)、費、郯、邳は羅です。それ以外の国は矢を射る価値もありません。王は六双の鳥(上述の十二国を見ながらなぜ射止めようとしないのでしょうか。王はなぜ聖人を弓とし、勇士を繳(矢)とし、時に応じて弦を張り、これらの獲物を射止めないのでしょうか。この六双を射れば、囊(袋)に入れて持ち帰ることができます。その楽しみはわずか一朝一夕の楽しみではなく、その獲物は鳧鴈(野鳥や雁)の類ではありません。王が朝に弓を張って魏の大梁(魏都)南部を射ち、その右臂(右腕)に矢を加えて韓を牽制すれば、中国(中原)の路を絶つことができるので、上蔡(韓の地)の郡が壊滅します。還って圉の東を射ち、魏の左肘を断ってから外の定陶を撃てば、魏は東部を放棄することになるので、大宋と方の二郡を攻略できます。しかも魏は二臂を断たれているので墜落します。そこで正面から郯国を撃てば、大梁を得ることができます。蘭台(桓山の別名)で矢を収めて西河で馬に水を飲ませ、魏の大梁を安定させることが、一発目の矢の楽しみです。
もし王が弋(鳥を射る狩り)を愛して厭きることがないようなら、宝弓を出して碆(石の鏃)と新繳(新しい繳。繳は矢が刺さった獲物を回収するための紐)を使い、東海で噣鳥(嘴がある大きな鳥。斉の喩え)を射ち、引き返して長城を防備とし、朝に東莒を射て夕に浿を発し、夜には即墨に矢を加え、返って午道を占拠すれば、長城の東を收めて太山の北を占領することができます。(魏と斉を得たら)西は趙と接し、北は燕に達します。三国(楚燕)は鳥が翼を広げたような形になるので、盟約を結ばなくても合従が成立し、北遊したら燕の遼東を観察でき、南は山に登って越の会稽を望むことができます。これが二発目の矢の楽しみです。
泗上十二諸侯に対しては、左に迂回して右に振り払うだけで、一朝にして全て支配できます。
今、秦は韓を破りましたが、これが長い憂いになっています。なぜなら秦は韓から多数の城を得ても守ることができないからです。秦は魏を攻めても功がなく、趙を撃っても後ろを憂慮しなければなりません。(秦が東進することで)秦と魏の勇力が尽きたら、楚の故地である漢中酈を奪回できるはずです。王が宝弓を出して碆と新繳を使い、塞を越えて秦の疲労を待てば、山東河内を取って一つにし、民を慰労して衆を休ませ、南面して王(天子)を称すことができます。
秦は大鳥です。海内(内地)を背にして東向きに立ち、左臂は趙の西南に接し、右臂は楚の鄢郢につながり、膺(胸)の前では韓魏を撃ち、中国(中原。山東に頭を垂れています山東を呑み込もうとしています)。秦は有利な位置にあり、形勢には地の利があり、翼を拡げれば方三千里に及びます。だから秦は単独で一夜の間に射止めることができないのです。」
男は頃襄王を発憤させるためにこの話をしました。
 
頃襄王は後にも男を招いて話をしました。
男が言いました「先王は秦に欺かれて国外で客死しました。これ以上の怨みはありません。匹夫(庶民)でも怨みを持ち、万乗(大国)に対して怨みに報いた者もいます。白公や子胥伍子胥です。今、楚の地は方五千里に及び、甲兵百万を擁しているので、中野(中原)に躍り出るには充分な力があります。それなのに座して困窮を待っているようですが、臣が見るに、大王がこのような方法を採り続けるはずがありません。」
頃襄王は諸侯に使者を送って合従を呼びかけ、秦を討つことにしました。
それを聞いた秦は兵を発して楚を攻撃しました。
 
楚は斉韓と共に秦を攻め、その機に乗じて周を滅ぼす計画を立てました。以下、『史記楚世家』と『資治通鑑』からです。
楚の動きを知った周王赧が武公を楚に派遣しました。『資治通鑑』は武公を「東周武公」としていますが、周王は西周にいるので、恐らく西周の武公です。
武公が楚の令尹(相)昭子に言いました「三国が武力で周の郊地を割いて輸送の便とし、周の宝器を南に遷して楚を尊重しようとしていますが、臣が思うにそれは相応しくありません。天下の共主(共通の主)を弑殺して世君(代々の天子)を臣下としたら、大国が親しまなくなります。衆(多勢)によって寡(無勢)を脅かしたら、小国が帰順しなくなります。大国が親しまず、小国が帰順しなかったら、名も実も手にできません。名も実も得られないようなら、民を傷つけるべきではありません(民を動員して戦をするべきではありません)。楚から周を図る声が上がったら、天下に号令を出せなくなります。」
昭子が問いました「周を図るということはありません。しかしもしあったとしても、なぜ図ってはならないのですか?」
武公が言いました「相手の五倍の兵力がなければ敵の軍を攻めてはならず、十倍の兵力がなければ城を包囲してはならないと言います。一周が二十の晋(恐らく魏を指します)に値することは公も知っているはずです(周は天下の共主なので二十の晋に値します)。かつて韓は二十万の衆を晋の城下で煩わせ、鋭士が死んで中士(普通の士卒)が傷ついたのに、結局、晋を攻略できませんでした。公には韓の百倍の兵力もないのに周を図ろうとしています。これは天下が知っていることです。両周と怨みを結んだら鄒魯の心を塞がせ、斉との交わりが絶たれ、天下で名声を失います。これは危険なことです。また、両周を危うくしたら三川(韓)を厚くし、方城の外では楚が韓より弱くなります。その理由はこうです。西周(王城)の地は長い部分を削って短い部分を補っても百里に過ぎません。名は天下の共主ですが、その地を分割しても肥国(大国)に及ぶことなく、その衆も勁兵(強兵)になることはできません。しかし(周を得ようと図ったら)戦わなくても弑君の汚名が着せられます。それでも事(戦争)を好む国君や攻撃を好む臣下は、用兵の号令を出して周に兵を向けようとします。これはなぜでしょうか。祭器(三代に伝えられた九鼎等の宝器)が周にあり、それを欲して弑君の乱を忘れるからです。今、韓が祭器を楚に運ぼうとしていますが、臣は天下が祭器のために楚を憎むようになるのではないかと心配しています。一つ喩えをしましょう。虎は肉が生臭く、しかも鋭利な爪牙をもっているのに、それでも人は虎を討とうとします(虎の皮を欲しているからです)。もしも沢の中に住む麋(大鹿)が虎の皮を被ったら、人々は万倍の欲をもって麋を撃つでしょう(鹿は鋭い牙も爪もなく、しかも肉を食べることができます。もしも大鹿が虎の皮を被ったら、ますます人々から狙われるようになります)。楚の地を分割したら肥国を形成でき、楚討伐の名を使えば尊王になります。今、子(あなた)は天下の共主を害して三代の伝器を奪い、三翮六翼(九鼎)を独占して世主の上に立とうとしていますが、これは貪婪というものです。『周書』には『興隆したければ先行しない(率先して乱を起こさない。「欲起無先」)』とあります。祭器を南に遷した時、(諸侯の)兵が楚に至るでしょう。」
楚は周攻撃の計画をあきらめました。
 
楚と秦は翌年に戦います。
 
[] 『史記周本紀』に蘇厲の故事が書かれています。
この年、東方に勢力を拡大している秦の白起が魏を攻撃しようとしました。
蘇厲が白起の魏攻撃を中止させるため、周君西周武公)にこう言いました「秦が韓と魏を破り、師武(恐らく人名)を撃破し、北は趙の藺と離石を取りましたが、これは全て白起がやったことです。白起は用兵を善くし、また天命もあります。今、白起は兵を率いて塞(伊闕塞)から出撃し、梁(魏)を攻めようとしていますが、梁が破れれば周も危うくなります。君(あなた)は人を送って白起にこういう話をするべきです『楚に養由基という者がおり、射術を得意としました。柳の葉から百歩も離れた所で矢を射ても百発百中です。数千人の者が集まって養由基の射術を褒めたたえました。すると一夫が養由基の傍に立ってこう言いました「素晴らしい(善)。射術を教えてやろう。」養由基は弓から手を離し、剣を握ってこう言いました「客(あなた)が私に射術を教えるというのか!」客が言いました「私は子(あなた)に左右の手の使い方(支左詘右)を教えるのではありません。柳の葉から百歩も離れているのに百発百中でしたが、善(うまくいっている時)において止めておくべきです。暫くしたら気が衰え力も尽きてしまうので、弓がぶれて矢が曲がってしまいます(弓撥矢鉤)。もし一発でもはずしたら、百発の功を失うことになります。」今、公(あなた。白起)は韓と魏を破って師武を撃破し、北は趙の藺と離石を取るというとても大きな功を立てました。しかし更に兵を率いて塞から出撃し、両周(東西周を通り、韓に背き、梁を攻めたとして、もしもこの一挙に失敗したら、前功を全て失うことになります。公は病と称して出撃を中止するべきです』。」
この後、周が白起に使者を送ったかどうかはわかりません。
ほぼ同じ話が『戦国策西周』にもあります。但し、「師武」が「●武(●は尸に羊)」になっています。
 
 
 
次回に続きます。