戦国時代87 東周赧王(二十五) 秦の黔中攻略 前280年

今回は東周赧王三十五年です。
 
赧王三十五年
280年 辛巳
 
[] 秦の白起が趙軍を破って二万を斬首し、代の光狼城を取りました。
資治通鑑』胡三省注によると、光狼城は元々代国に属していましたが、趙襄子が代を滅ぼしてから中山国が光狼の地を奪いました。趙武霊王が中山国を滅ぼしたため光狼も趙に属したようです。但し、詳しい場所はわかりません。
 
趙の戦死者の数ですが、『史記廉頗藺相如列伝(巻八十一)』『資治通鑑』は「殺二万人」「斬首二万人」としているのに対し、『史記六国年表』では「斬首三万」となっています。
 
また、『史記趙世家』には、「秦が趙の二城を取った」とあります。
 
[] 秦が司馬錯に隴西の兵を動員させ、蜀から楚の黔中を攻めて攻略しました。
資治通鑑』胡三省注によると、隴西は大隴山の西の地で、元は冀戎、戎、氐、羌が住んでいました。秦国は数代にわたってこの地を開拓し、隴西郡を置きました。
 
楚は漢水(宛唐)と上庸の地を秦に譲りました。
 
以上は『史記秦本紀』と『資治通鑑』の内容です。
『華陽国志』に黔中攻略について少し詳しく書かれています。
『巴志(巻一)』は「司馬錯は涪水から進軍して楚の商於を取り、黔中郡を置いた」としており、『蜀志(巻三)』には「司馬錯は巴蜀の衆十万、大舶船万艘を率い、米六百万斛を準備して長江から楚を攻め、商於の地を取って黔中郡にした」とあります。
但し、『蜀志』の記述は東周赧王七年(前308年)の事としているので、『史記』『資治通鑑』とは時間があいません。また、商於の地はかつて商鞅封地にもなっているので、この頃は既に秦の地だったと思われます。
 
尚、東周赧王三十八年(前277年)にも「秦の武安君白起が楚の巫と黔中を平定し、黔中郡を置いた」という記述があります。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦が罪人を赦して南陽に遷しました。南陽の人口を増やすためです。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が魏に伯陽(地名。二年前参照)を与えました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が趙奢を将に任命し、斉の麦丘を攻めて攻略しました。
 
[] 『史記六国年表』によると、この年、秦で地が動いて城が崩れました。
 
 
 
次回に続きます。