戦国時代88 東周赧王(二十六) 澠池の会 前279年(1)

今回は東周赧王三十六年です。三回に分けます。
 
赧王三十六年
279年 壬午
 
[] 秦の白起が楚を攻めて鄢(または「阝」の右に「焉」)、鄧、西陵を取りました。
鄢は楚都郢と併称して「鄢郢」とよばれる重要な地です。
 
この戦いで、鄢では水攻めが行われたようです。
唐代の『元和郡県図志山南道二(巻第二十一)』には「秦昭王が白起に楚を攻めさせた。白起は蛮水を引いて鄢城に流し、鄢を攻略した」とあります。
北魏の『水経注沔水中(巻二十八)』に更に詳しい記述があります。
夷水(蛮水)は東に向かって沔水に合流します。かつて白起が楚を攻めた時(『水経注疎』はこれを鄢攻撃の時としています)、西山長谷の水を引きましたが、これが夷水です。(堤防)から城までは百里ほどありましたが、水が城西から城東に向かって流れ、城内を淵のように深く水没させました。
(中略)水は城の東北角を破壊し、百姓を城東の陂(池)に押し流しました。死者は数十万に上ります。城東の陂に悪臭が漂ったため、臭池とよばれるようになりました。
 
史記秦本紀』によると、秦は罪人を釈放して楚から奪った鄢、鄧の地に遷しました。
 
[] 秦王が使者を送って趙王に河外(「河外」は『資治通鑑』の記述。『史記趙世家』では「西河外」)の澠池(または「黽池」)で会すことを伝えました。名義上は修好を目的としています。以下、『史記廉頗藺相如列伝(巻八十一)』と『資治通鑑』からです。
趙王は澠池の会に行きたくありませんでしたが、廉頗と藺相如が建議して言いました「王が行かなかったら趙が弱くて臆病だという事を示してしまいます。」
趙王は会に行く決意をし、藺相如に同行を命じました。
廉頗が国境まで趙王を送り出し、こう言いました「道程と会見の礼に要する時間を考えると、王が出発してから帰るまで三十日もかかりません。もし三十日経っても帰還しないようなら、太子を立てて秦の望みを断つことをお許しください(趙で新君が即位すれば、趙王が秦に捕えられて人質になっても、趙が秦に屈する必要はありません)。」
趙王は同意しました。
資治通鑑』胡三省注によると、廉姓は顓帝(顓頊帝)の曾孫大廉の子孫です。
 
趙王と秦王が澠池で会しました。
秦王が趙王に酒を進めます。酒がまわった頃、秦王が言いました「趙王は音楽が好きだと聞いた。瑟を奏でてほしい。」
資治通鑑』胡三省注に瑟の解説があります。瑟には二十五絃があり、伏羲が作りました。もしくは黄帝素女(仙女)に五十絃の瑟を弾かせたところ、悲しみが止まらなくなったため、二十五絃を減らしたともいいます。趙人は瑟を得意としたため、秦は趙王に瑟を演奏させました。
趙王が瑟を奏でると、秦の史官がこう記録しました「某年月日、秦王が趙王と会し、趙王に命じて瑟を奏でさせる。」
 
これに対して藺相如が前に出て言いました「秦王は秦声(秦の音楽)が得意だと聞きました。缻(缶。瓦器。秦では打楽器として使われていた)を叩いて娯楽(余興)としてください。」
資治通鑑』胡三省注によると、缻は西戎の楽器で、秦人はこれを叩いて音楽の節にしていました。藺相如があえて缻を選んだのは、秦を戎の国として貶めるためです。
秦王は怒って拒否しました。
すると藺相如が進み出て缻を献上し、跪いて演奏を請いました。秦王はやはり拒否します。藺相如が言いました「大王と臣の間には五歩しかありません。相如が頸血(首の血)を大王にそそぐことをお許しください。」
至近にいる昭襄王を殺して藺相如も共倒れするという意味です。
秦王の左右の者が藺相如を襲おうとしましたが、藺相如が目を見開いて叱咤したため、左右の者は皆恐れて動けなくなりました。
秦王は不快な面持ちで缻を一回叩きました。
藺相如は趙の史官にこう書かせました「某年月日、秦王が趙王のために缻を叩く。」
 
次は秦の群臣が趙に要求しました「秦王の長寿を祝うために、趙には十五城を割譲してほしい。」
藺相如が答えて言いました「趙王の長寿を祝うために、秦には咸陽(秦都)を趙に譲ってほしい。」
 
酒宴が終わるまで趙が秦に弱みを見せなかったため、秦は趙に無理な要求を出せませんでした。また、趙が警戒して大軍の備えを設けていたため、秦兵も動けませんでした。
 
帰国した趙王は藺相如を上卿に任命し、廉頗の右に置きました。右は尊位を表します。
 
廉頗が言いました「わしは趙の将として攻城野戦の大功を立ててきた。藺相如は元々賎人(身分が低い者)なのに、口舌を労するだけでわしの上に位置することになった。わしはそれを羞じと思う。彼の下にいるのは我慢できない。」
そこでこう公言しました「相如にあったら必ず辱めてやろう。」
これを聞いた藺相如は廉頗に会わないようになり、朝会でも病と称して廉頗と位を争うことを避けました。
ある日、藺相如が外出すると、遠くに廉頗を見つけました。藺相如はすぐに車を返して逃げ隠れします。
藺相如の舍人達が諫めて言いました「臣等が親戚(家族)から離れてあなたに仕えたのは、あなたの高義を慕ったからです。今、あなたは廉頗と同列になったのに、廉頗が悪言を公にすると、あなたは畏れて隠れるようになってしまいました。しかもその懼れ方は尋常ではありません。庸人(凡人)でもそのような様子を羞じるのに、将相のあなたは恥ずかしくないのですか。臣等は不肖なので去らせていただきます。」
すると藺相如が問いました「子()は廉将軍と秦王を較べてどう思う?」
舎人達は「(廉頗は秦王に)及びません」と答えます。
藺相如が言いました「秦王の威に対しても相如は彼の廷(朝廷)で叱咤してその群臣を辱めた。相如は駑(愚鈍)だが、廉将軍一人を畏れると思うか。私は、強秦が趙に兵を加えない理由は我々二人がいるからだと思っている。今もし二虎が互いに戦ったら、両者が共に生きることはできないだろう(どちらかが倒れるだろう)。私がこうしているのは国家の急を優先して私讎を後回しにしているからだ。」
この言葉を聞いた廉頗は上半身を裸にして荊を背負い(肉袒負荊)、賓客に案内させて藺相如の屋敷の門前に来ました。藺相如に謝罪してこう伝えます「鄙賎の人(粗野で卑賎な者)には将軍がこのように寛大だとは思いもよりませんでした。」
この後、二人は刎頸の交りを結びました。
「刎頸の交わり」というのは、友人同士が苦難生死を共にし、たとえ相手のために首を斬られても後悔しないほどの深い関係を意味します。
 
 
 
次回に続きます。