戦国時代89 東周赧王(二十七) 火牛の計 前279年(2)

今回は東周赧王三十六年の続きです。
 
[] 燕の楽毅が斉都臨淄に入ってから、燕軍は安平を攻撃しました。具体的な時間はわかりません。
 
その時、臨淄の市掾(市を管理する小官)田単が安平におり、宗人に命じて車轊(馬車の車輪の中央で、車軸が出っ張った部分)に鉄籠(鉄の覆い)をつけさせました。
安平の城が陥落すると、人々は争って城門に奔りましたが、馬車の轊がぶつかり合って折れてしまいました。車が破損して動けなくなった者はことごとく燕軍に捕えられます。
田単の宗人だけは鉄籠のおかげで車輪が破損することなく、即墨に逃走できました。
 
当時、斉の地は莒と即墨を残して全て燕に占領されていました。
燕の楽毅は中軍を率いて右軍、前軍と合流し、莒を包囲します。燕の左軍、後軍も即墨を包囲しました。
即墨大夫が出陣して戦死したため、即墨の人々が相談してこう言いました「安平の戦いでは田単の宗人だけが鉄籠のおかげで無事だった。彼は智謀が多くて兵法を習熟しているに違いない。」
人々は田単を将に立てて燕軍に対抗しました。
 
楽毅が二邑を包囲して一年が経ちましたが攻略できませんでした。そこで楽毅は包囲を解き、城から九里離れた場所に営塁を築かせました。
楽毅は二邑を懐柔するため、軍中にこう命じました「城中の民が出て来ても捕えてはならず、困窮している者がいたら救済せよ。民を旧業に就かせて新民(燕に帰順した民)を安定させよ。」
 
そのまま三年が経ちましたが、二邑は降伏しません。
燕国内では楽毅を讒言する者が現れました。ある者が燕昭王に言いました「楽毅の智謀は常人を越えており、斉を攻めて一呼吸する間に七十余城を落としました。今、二城を落とさないのは、力がないから攻略できないのではありません。三年も攻撃しないのは、久しく兵威を用いて斉人を服従させ、南面して王を称すつもりだからです。既に斉人が服したのにまだ実行しないのは、その妻子が燕にいるからです。しかし斉には美女が多いので、やがて妻子を忘れることでしょう。王はよく考えるべきです。」
昭王は盛大な酒宴の席を設けてから、讒言した者を招いてこう言いました「先王(王噲)が国を挙げて賢者を礼遇したのは、土地を貪って子孫に残したかったからではない。しかし先王の位を継承した者(子之)は徳が薄く、命(王噲の命)に堪えることができなかったため、国人も不順となった(従わなくなった)。無道な斉は孤の国の乱に乗じて先王を害した。寡人は即位してから骨に達するほど心痛し、広く群臣を請い、外からも賓客を招き、仇に報いることができる者を求め、功を成した者と共に燕国を治めたいと願った。今、楽君は自ら寡人のために斉を破り、その宗廟を破壊し、旧仇に報いてくれた。斉国は元々楽君が有するべきであり、燕が得るべき地ではない。楽君が斉を有して燕と並ぶ列国(諸侯)となり、友好を結んで諸侯の難を防ぐことができるのなら、それは燕国の福であり、寡人の願いである。汝はなぜ敢えてそのようなことを話すのだ。」
昭王は讒言した者を斬りました。
しかも楽毅の妻に王后の服を下賜し、楽毅の子にも公子の服を下賜しました。更に輅車(国君の車)乗馬(馬車を牽く四頭の馬)と輅車に続く属車百輌を準備し、国相を派遣して楽毅に届けさせます。
こうして燕昭王が楽毅を斉王に立てましたが、楽毅は恐縮して辞退し、拝謝してから命を懸けて忠誠を誓うことを書き記しました。
斉人は楽毅の義に敬服し、諸侯も楽毅の信を恐れ、燕を侵そうとする国がなくなりました。
 
ところが暫くして昭王が死んでしまいました。子の恵王が即位します。
恵王は太子だった頃から楽毅を不快に思っていました。
それを知った田単は燕に人を送って反間(離間)の計を施します。田単の部下がこういう噂を流しました「斉王は既に死に、攻略されていないのは二城だけだ。楽毅は燕の新王と間隙があるため、誅殺を恐れて帰ろうとしない。彼は斉討伐を名義にしているが、実際は兵を率いて斉で南面し、王を称えるつもりだ。しかし斉人がまだ帰順していないので、ゆっくり即墨を攻撃して事が成るのを待っている。斉人が恐れるのは他の将が来ることだ。そうなったら即墨は破壊されてしまう。」
燕王は楽毅を猜疑し、反間の計にはまってしまいました。騎劫を派遣して楽毅と交代させます。
資治通鑑』胡三省注によると、騎は姓氏という説と、官名という説があります。
 
楽毅は新王が自分に対して不善である(誅殺の恐れがある)と判断し、趙に奔りました。
燕の将士は不満を積もらせ、軍がまとまらなくなります。
 
田単は城中の人々に命令を出し、食事をする前に必ず家の庭で先祖を祭らせました。祭祀の飯が城内各家の庭に置かれる度に、鳥が城内に集まり、上空を旋回して舞うようになります。
城を包囲している燕人はその様子を見て不思議に思いました。
そこで田単が宣言しました「神師が降臨して私を助けるつもりだろう。」
すると一人の士卒が戯れに「臣が神師になれますか?」と言って走り去りました。田単はこの士卒を連れて帰り、東を向かって座らせ、自ら師事しました。
士卒が恐れて「臣は君(あなた)を騙しました」と言いましたが、田単は「子(汝)は何も言うな」と命じます。
田単は命令を発する度に「神師の教えである」と称しました。
 
田単が燕の陣営にこういう噂を流しました「我々は燕軍が斉の捕虜を劓(鼻を削ぐ刑)に処すことを恐れている。もしも取った鼻を前において兵を進めたら、即墨は(動揺して)破れるだろう。」
それを聞いた燕人は斉の捕虜の鼻を削いで城内の人々に見せます。
城内の人々は激怒し、また、捕虜になることを恐れ、皆で城を堅守しました。
田単がまた噂を流しました「我々は燕人が城外の冢墓を掘り起こすことを恐れている。もしそうなったら、寒心に堪えられないだろう。」
それを聞いた燕軍は斉人の冢墓を掘り起こし、死体を焼き捨てました。城壁の上でその様子を見ていた斉人は皆涙を流し、怒りを十倍にし、出陣を願うようになりました。
 
田単は士卒の士気が上がって戦えるようになったと判断しました。そこで自ら版や鍤(どちらも建築で使う道具)をもって士卒と共に城壁を修築しました。田単の妻妾も行伍の間(陣中)に入って士卒に飲食をふるまいます。
 
田単が甲卒を城壁の下に埋伏させ、老弱な者や女子を城壁に登らせました。
その後、燕に投降の使者を送ります。
燕軍の将兵は即墨を攻略できたと信じ、そろって万歳を唱えました。
田単は民から金千鎰を集め、即墨の富豪を燕陣に派遣し、燕将にこう伝えさせました「我々はすぐに投降します。我が家族を捕虜にしたり略奪することがないようにお願いします。」
燕将は喜んで同意しました。燕軍が警戒を解きます。
 
その間に田単は城内で牛千余頭を集め、絳繒(赤い絹の服)を着せました。絳繒には五采の龍の模様が描かれています。牛の角には鋭利な刀を結びつけ、脂を浸した葦の束を尾に縛りました。
夜、城壁に数十の穴を開け、牛の尾につけた葦に火を灯しました。これを「火牛」といいます。火牛は燕陣を目指して穴から放たれました。火牛の後に壮士五千が続きます。
尾を焼かれた牛は怒涛のように燕陣に殺到しました。燕軍は龍の模様をした赤い牛に急襲されて大混乱に陥ります。牛にはねられた者が次々に負傷し、命を落としました。
その時、城内で戦鼓が鳴り響きました。老弱の者達が銅器を叩きながら喚声を挙げ、天地を震わせます。
ますます驚いた燕軍は壊滅して敗走を始めました。
斉人は騎劫を斬り、逃走する燕軍を追撃します。
斉軍が通過した場所では、次々に城邑が燕から離れて再び斉に帰順しました。
田単の兵は日々膨張を続けながら勝ちに乗じて進軍します。
燕軍は敗走の日々を送って黄河まで逃げ延びました。
こうして斉の七十余城が全て斉軍に奪還されました。
 
斉人は襄王を莒から臨淄に迎え入れました。斉襄王五年の事です。
田単は安平君に封じられました。『資治通鑑』胡三省注によると、「安平」は「国を安んじて難を平定する」という意味です。
 
[] 斉王が太史敫の娘を王后に立てました。君王后とよばれます。君王后は太子建が生みました。
しかし太史敫は「娘は媒(媒酌人)を取らず、自分で嫁いだ(正式な婚姻ではなく、私通によって結ばれた)。我が家の子ではない(非吾種也)。我が家を汚してしまった」と言って、終生、君王后に会いませんでした。
一方の君王后は、親に会えないからといって子としての礼を失うことはありませんでした。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が廉頗を将にして斉を攻めました。
 
 
 
次回に続きます。