戦国時代90 東周赧王(二十八) 荘蹻 前279年(3)
今回で東周赧王三十六年が終わります。
燕恵王が人を送って楽毅に謝罪し、併せて批難してこう伝えました「将軍は誤って伝聞を信じたため、寡人と間隙を生じ、燕を棄てて趙に奔った。将軍が自分のための計とするのならそれも良いが、先王の将軍に対しする意(心)にはどう報いるつもりだ?」
楽毅が書を送って答えました「昔、闔閭は伍子胥の言を聴いて呉の勢力を遥か遠い郢まで延ばすことができました。しかしその子・夫差は伍子胥の言を聞かず、鴟夷(皮袋)を下賜して江(長江)に浮かべました。呉王には、先君の大功は子胥の言のおかげだということが理解できなかったので、子胥を沈めても後悔しませんでした。子胥も国主の度量が異なるということに早く気づかなかったため、江に入れられて怨みを消すことができない状態になりました(殺されてしまいました)。自身の禍から免れ、(燕のために)功を立てて先王の業績を明らかにできるとしたら、それは臣にとって上計です。しかし毀辱の誹謗をかぶって(誹謗によって殺されることで)先王の名声を落とすのは、臣が大恐(最も恐れること)とすることです(なので帰国するわけにはいきません)。とはいえ、不測の罪をかぶせられたからといって、新しい幸(趙における重用)を利とするのは(趙に重用されるために燕を侵すことは)、義においてできません。古の君子は交わりを断っても悪口を言わず、古の忠臣は国を去ることになっても汚名を晴らさなかったといいます。臣は不佞(不才)ですが、少なからず君子の教訓を学んできました。君王の留意(これらのことを心に留めること。楽毅の気持ちを理解すること)を願うだけです。」
楽毅も燕との間で使者を往来させ、趙と燕の修好に務めます。
[七] 田単が斉の相になりました。
『資治通鑑』が田単の故事を紹介していますが、別の場所で書きます。
孟嘗君は魏に奔り、魏昭王によって相に任命されます。
湣王が死んで襄王が斉国を恢復させた時、孟嘗君は諸侯の間で独立した状態になっており、誰にも帰順しませんでした。
即位したばかりの襄王は孟嘗君を恐れて和を結びます。
こうして孟嘗君の家系は途絶えてしまいました。
[九] 楊寛の『戦国史』が荘蹻について書いています。
前277年(東周赧王三十八年)、秦が蜀郡守・張若に命じて楚の黔中郡と巫郡を攻略させました。
翌年、楚が東部の兵を動員して黔中郡の十五邑を奪還し、新たに郡を置いて秦に対抗しました。
これは『史記・西南夷列伝(巻百十六)』『漢書・西南夷両粵朝鮮伝(巻九十五)』『後漢書・南蛮西南夷列伝(巻八十六)』の記述が元になっています。しかし『史記』と『漢書』は楚威王の時代としており(当時の楚は頃襄王の時代です)、『後漢書』は楚の将を荘蹻ではなく荘豪としています。以下、『史記』と『後漢書』の記述を紹介します(『漢書』は『史記』の内容とほぼ同じなので省略します)。
しかし荘蹻が帰国しようとした時、秦が楚を撃って巴と黔中郡を奪いました。道が塞がれて帰国できなくなった荘蹻は衆(楚兵)を利用して滇で王を称しました。荘蹻は服装を変えてその地の習俗に従ったため、長になりました。
楚頃襄王の時代、楚が将・荘豪を派遣し、沅水を通って夜郎を討伐させました。楚軍は且蘭に至ります。荘豪は且蘭の岸に船を停泊させて徒歩で戦い、夜郎を滅ぼしました。その後、滇池に留まって王を称しました。且蘭は船を泊めた場所なので牂柯に改名されました。牂柯は船を泊める時に縄を縛る柱の意味です。
楊寛の『戦国史』は、『史記』『漢書』が楚威王の時代としているのは誤りで、『後漢書』が頃襄王に訂正しているのが正しいと判断しています。また、荘王の後裔(または弟)というのは、荘という氏から推測された説であり、信用できないと解説しています。
但し、反乱を起こした荘蹻と滇王になった荘蹻が同一人物かどうかは明確な資料がなく、中国国際広播出版社の『戦国史話』等は別の人物としています。
次回に続きます。