戦国時代93 東周赧王(三十一) 春申君・黄歇 前273年(二)

今回は東周赧王四十二年の続きです。
 
[] 韓と魏が秦に服したため、秦王は武安君白起に命じて韓魏と共に楚を攻撃させることにしました。
しかし出兵前に楚の使者黄歇(春申君)が秦に来ました。
資治通鑑』胡三省注によると、陸終の後世が黄に封じられましたが、後に楚に滅ぼされました。その子孫が国名の黄を氏にしました。
 
黄歇は秦が楚攻撃の準備をしていると聞き、勝ちに乗じた秦が大挙して楚を滅ぼすことを恐れました。そこで上書して秦王にこう伝えました「物が極まったら必ず反すといいます。冬と夏の関係がそれです(冬になって陰が極まったら陽が生まれて夏になり、夏になって陽が極まったら陰が生まれて冬になります)。極限に至ったら危険になるといいます。累棋(将棋の駒を重ねる遊戯)がそれです。今、大国(秦)の地は天下に遍いて二垂(西と北の果て)を擁しています。これは民が生まれて以来、万乗の国でも達したことがない領域です。先王(楚の先王)三世は(秦が)斉と土地を接したら、従親(合従)の腰(東国が合従した時に各国をつなげる場所。韓魏)が絶たれることを忘れませんでした(合従において韓・魏は重要な場所にあります)。今、王(秦王)は盛橋(人名)を韓に送って政治を行わせ、盛橋に命じてその地を秦に入れさせています。そのおかげで王は甲兵を用いて武威を振るう必要もなく、百里の地を得ることができました。これは王の能(才能。力)といえます。また、王は甲兵を興して魏を攻撃し、大梁(魏都)の門を塞ぎ、河内を制覇して燕、酸棗、虚、桃(全て魏の地名。燕は北方の燕国ではありません)を奪い、邢(邢丘。旧邢国)に入りました。魏の兵は雲翔(恐らく雲が集まっているように兵が集まっていること)しながらそれを援けることもできません。王の功はとても大きなものです。
王が甲兵民衆を休め、二年後に再び兵を興して蒲、衍、首、垣を占領し、仁と平丘に臨めば、黄と済陽はそれぞれの城を守り(自分の城を守るので精一杯なため、魏都大梁を援ける余裕がないという意味です)、魏氏は秦に服すことになります。その後、王が更に濮磨の北を削れば、斉の腰とつながるので(魏を征服した後、濮磨の北を占領すれば、斉と接します)、楚と趙の脊(背骨)を絶つことができます(魏を占領して秦と斉の地がつながれば、北の趙と南の楚の連携を絶つことができます)。その結果、天下は五合六聚しても(何回も合従しても)互いに援けることができず、王の威名が天下に行き届きます。そこで王が功績を保って威声を守り、攻取の心を抑えて仁義を各地に施し、後患を除くことができれば、三王(夏周三代の王)に続く四人目の王となり、五伯春秋五覇に続く六人目の覇者になれます。
しかしもし王が人徒の衆(多数の兵)や兵革の強(強大な武力)に頼り、魏を滅ぼした威に乗じて武力によって天下の主(楚・趙・斉・燕等の国主)を臣従させようとしたら、恐らく後患を招くことになるでしょう。『詩(大雅蕩)』にはこうあります『始めにうまくいくことは多いが、終わりがうまくいくことは少ない(靡不有初,鮮克有終)。』また『易(未済)』にはこうあります『狐が川を渡って尾を濡らす(狐涉水,濡其尾)。』どちらも始めは易しく、終わりは難しいということをいっています。昔、呉が越を信じて斉を攻撃し、艾陵で斉人を破りましたが、帰国してから三江の浦(浜)で越王に殺されました。智氏は韓魏を信じて趙を討ち、晋陽城を攻めて勝利を目前にしましたが、韓魏が叛したため智伯瑤は鑿台の下で殺されました。今、王は楚が滅んでいないことを嫌っていますが、楚が滅んだら韓魏を強くするということを忘れています。臣が王のために考えるとしたら、楚を敵視する方針は相応しくありません。秦にとって楚国は援(味方)であり、鄰国(韓魏)こそが敵です。王は韓魏が王に対して善であると信じていますが、これはまさに呉が越を信じたのと同じです。臣は韓魏が自国の憂患を除くために辞を低くし、実際は大国(秦)を欺こうとしているのではないかと心配しています。なぜなら、王は重世(再生)の徳を韓魏に与えたことがなく、逆に累世の怨を韓魏に抱かせているからです。韓魏の父子兄弟で踵を接して(前後連続して)秦で死んだ者は十世に及びます。だから韓魏が亡ばなければ秦の社稷の憂いとなるはずです。しかし今の王は両国を助けて楚を攻撃しようとしています。これは誤りではありませんか。そもそも、楚を攻める兵はどこから出すのでしょうか。王が仇讎の韓魏に道を借りたら、出兵した日から兵が還らないことを心配しなければなりません。もし王が仇讎の韓魏に道を借りなかったら、隨水の右壤(隨水の西の地)を攻めなければなりません。その地は広川(大川)、大水(大河)、山林、深谷ばかりの不食の地(開墾できない地)です。王は楚を滅ぼすという名義を称えながら、地の実(領土から得る実際の利益)を得ることができません。また。王が楚を攻める日には、四国が兵を総動員して王に応じるでしょう。しかし秦楚の兵が争って決着がつかない間に、魏氏は兵を動かして留、方與、銍、湖陵、碭、蕭、相を攻め、旧宋国の地を全て占領します。斉人は南面して楚を攻撃し、泗上を占領します。それらの地は四方に通じた膏腴(肥沃)な平原なので、天下に斉魏より強い国は存在しなくなります。
臣が王のために謀るとしたら、楚との関係を善くするべきです。秦楚が協力して韓に臨めば、韓は必ず歛手(手を束ねること。恭順を示します)して入朝します。王は東山(秦都咸陽の東。華山、崤山等の諸山)の険を制して曲河の利を有すことになり、韓は必ず(秦の)関内侯となります。その後、もし王が十万の兵で鄭(韓都)を守らせたら、梁氏(魏氏)も心を寒くし、(楚の)春秋時代の許国)と鄢陵はそれぞれの城を守り、上蔡(旧蔡国。蔡は後に新蔡に遷ったため、旧都を上蔡といいます)と召陵も(魏都大梁に)援軍を出せなくなります。その結果、魏も秦の関内侯になります。大王は楚一国との関係を善くするだけで、二つの万乗の主を関内侯とし、斉と地をつなげられます。そうなったら斉の右壤(済西の地)も拱手して取ることができます。こうして王の地は一経(経は東西の意味)両海(東海と西海)を結んで天下を制し、燕と趙には斉楚がなく、斉と楚には燕趙がなくなります(秦から韓魏を経て斉の西境まで秦領になるので、北の燕趙と南の楚斉は合従ができなくなります)。最後に燕趙を圧迫して斉楚を揺るがせば、この四国も痛撃を受ける前に服従するでしょう。」
秦王は納得して武安君の出兵を中止し、韓魏の兵も引き上げさせました。
同時に黄歇を帰国させて楚と同盟を結びました。
 
[] 『史記趙世家』によると、この頃、代が東胡の圧力で趙に叛したため、趙が代を鎮圧しました。
 
 
 
次回に続きます。