戦国時代94 東周赧王(三十二) 秦の宣太后と儀渠滅亡 前272~271年
今回は東周赧王四十三年と四十四年です。
赧王四十三年
前272年 己丑
[一] 前年、秦が韓・魏と共に楚を攻めようとしましたが、楚の左徒(官名)・黄歇が上書して止めさせました。黄歇が帰国して楚に報告すると、楚は秦と同盟するために人質として太子・完を秦に送ることにしました。
本年、楚は太子を秦に送り、黄歇に同行を命じました。
[二] 秦が南陽郡を置きました。
[三] 燕恵王が在位七年で死に、子の武成王が立ちました。
『趙世家』には「燕の将である成安君・公孫操がその王を弑殺した」とあり、『索隠』は殺された王を恵王としています。燕恵王は公孫操に殺され、子の武成王が即位したようです。但し、『趙世家』は燕恵王弑殺を翌年の事としています。
『燕召公世家』本文は恵王殺害に触れていませんが、『索隠』に『趙世家』とほぼ同じ記述があります。ここでは「燕将・成安君」が「燕相・成安君」になっています。
[四] 秦、魏、楚が共に燕を攻めました。
『秦本紀』「秦が韓、魏、楚を援けて燕を攻撃した。」
『燕召公世家』「韓、魏、楚が共に燕を攻めた。」
『韓世家』「燕を攻めた。」
『楚世家』「楚が三万人を送って三晋を援け、燕を攻めた。」
これらを見ると、韓も参加していたようです。
また、『燕召公世家』は連合軍が燕を攻めてから「燕武成王が立った」と書いているので(原文「恵王七年卒。韓、魏、楚共伐燕。燕武成王立」)、燕で恵王弑殺事件が起きてから、諸侯が燕の内乱を平定して武成王を即位させたのかもしれません。
『集解』は平陽君を恵文王の同母弟と解説しています。
しかし宣太后は義渠戎王を偽って誘い出し、甘泉で殺しました。この機に乗じて秦は兵を起こして義渠を滅ぼしました。
こうして秦は隴西、北地、上郡を支配下に置き、長城を築いて胡に備えました。
『漢書・匈奴伝(巻九十四上)』は『史記』とほぼ同じ内容です。この二書にはいつの事か書かれていません。しかし『後漢書』は東周赧王四十三年(本年)と明記しています。以下、『後漢書・西羌伝(巻八十七)』からです。
秦で昭王が即位すると、義渠王が秦に朝見しました。この時、儀渠王は昭王の母である宣太后と姦通しました。やがて二子が生まれます。
王赧四十三年、宣太后が義渠王を甘泉宮に誘い出して殺し、兵を起こして儀渠を滅ぼしました。
隴西、北地、上郡が置かれました。
翌年は東周赧王四十四年です。
赧王四十四年
前271年 庚寅
[一] 趙の藺相如が斉を攻めて平邑に至りました。
[二] 趙の田部吏(田地の租税を徴収する官)・趙奢が租税を集めましたが、平原君・趙勝(恵文王の弟)の家が拒否しました。
趙奢は法に則って処理し、平原君の家を管理する者九人を殺しました。
怒った平原君が趙奢を殺そうとすると、趙奢が言いました「あなたは趙の貴公子でありながら、家の者を自由にさせています。公を奉じなければ法が削られ、法が削られたら国が弱くなり、国が弱くなったら諸侯が兵を加えるので、趙は存在できなくなります。その時、あなたはどうしてこの富を擁すことができるのですか。尊貴な地位にいるあなたが公を奉じて法に則れば、上下が平になります(上下の心が一つになります)。上下が平になったら国が強くなります。国が強くなったら趙が固くなります(安泰となります)。その時、貴戚(王族)であるあなたが天下に軽んじられると思いますか。」
平原君は趙奢の賢能を認めて王に推挙しました。
趙王が趙奢に国の賦税を管理させると、国の税は公平になり、民は富んで府庫にも蓄えができました。
次回に続きます。