戦国時代95 東周赧王(三十三) 閼與の戦い 前270年(一)

今回は東周赧王四十五年です。三回に分けます。
 
赧王四十五年
270年 辛卯
 
[] 秦が趙を攻めて閼與を包囲しました。
 
これは『資治通鑑』の記述です。『史記趙世家』には「秦と韓が互いに攻撃し合い、(秦が)閼與を包囲した」とあります。『六国年表』には秦が韓の閼與を攻めたとしています。
 
資治通鑑』に戻ります。
趙王が廉頗と楽乗を招いて「(秦に包囲された閼與を)援けることができるか?」と問うと、二人とも「道が遠くて険隘なので困難です」と答えました。
資治通鑑』胡三省注によると楽乗は楽毅の宗人です。
 
趙王が趙奢にも聞くと、趙奢はこう答えました「道が遠くて険隘なので、二匹の鼠が穴の中で戦っているようなものです。勇敢な者が勝ちます。」
趙王は趙奢に援軍を率いて出陣させました。
 
趙奢は邯鄲を出て三十里で行軍を止めると、軍中にこう命じました「軍事に関して諫める者は死刑に処す。」
 
秦軍は武安西に駐軍しました。戦鼓を敲き、喚声を上げて兵を訓練します。武安城内の家屋の瓦が全て震えるほどの勢いでした。
趙軍の中候(軍吏)が趙奢に武安救援を進言しましたが、趙奢はすぐに処刑しました。
趙奢は営塁の壁を固め、二十八日間にわたって前進せず、更に営塁を増築しました。
秦の間諜が趙の陣に入ると、趙奢は敢えて美食を与えて労ってから放ちました。
帰った間諜は秦将に報告します。
秦将が喜んで言いました「国を去ってわずか三十里で行軍を中止し、しかも営塁を増築しているようなら、閼與はもう趙の地ではない(趙には閼與を援けるつもりがない)。」
 
一方の趙奢は秦の間諜を放してから、甲冑をしまって秘かに行軍を始めました。一日一夜で閼與から五十里の場所に到着し、営塁を築きます。
それを知った秦軍は全軍を移動させました。
 
趙の軍士許歴が軍事について趙奢に意見を述べることを請いました。
資治通鑑』胡三省注によると、許氏は元々姜姓の出身で、炎帝、太嶽の子孫です。許という国名を氏にしました。
許歴が言いました「秦人は元々趙軍がここに来るとは思ってもいませんでした。ここに向かっている秦人の士気は盛んなので、将軍は兵を集中して厚い陣で待ち構えるべきです。そうしなければ必ず敗れます。
趙奢は「教えを受け入れよう」と言いました。
進言を終えた許歴は刑を用いるように請いました。しかし趙奢は「待て。邯鄲の令より後のことだ」と言って刑を用いませんでした。
この趙奢の言葉は理解が困難です。原文は「胥後令邯鄲」です。「胥」は「待て」という意味ですが、「胥後令邯鄲」で一つとするか、「胥,後令邯鄲」と分けるかで解釈が異なります。
分けない場合は「(すぐに処刑する必要はない)後令を待て(胥後令)」となりますが、「邯鄲」と意味がつながりません。『資治通鑑』胡三省注は「邯鄲」は「欲戦(戦おうとした時)」の誤りではないかという説を載せています。その場合は趙奢の言葉の一部ではなく、次の文の出だしで「戦いが始まる前に許歴が再び言いました」となります。
「胥,後令邯鄲」と分けた場合は、「(処刑は)待て。邯鄲の令より後のことだ」と解釈できます。「進言した者は処刑する」というのは趙都・邯鄲を出てすぐに発した軍令で、この時は既に閼與に迫っていたので、「邯鄲の令を用いる必要はない」という意味になります(『史記・廉頗藺相如列伝(巻八十一)』索隠・正義および『資治通鑑』胡三省注参照)
 
許歴が再び言いました「先に北山の上を占拠した者が勝ち、後から来た者が負けます。」
趙奢は同意してすぐに一万人を派遣しました。秦軍も来ましたがすでに趙軍が占領しています。
趙奢が秦軍を攻撃し、秦軍は大敗しました。
秦軍は閼與の包囲を解いて兵を還しました。
 
趙王は趙奢を馬服君に封じて廉頗、藺相如と同位にしました。また、許歴を国尉に任命しました。
馬服君に関して、『史記趙世家』の注(正義)は、「馬服山を号にした」という説と、「馬は兵(戦)の首なので、馬を服すことができるという意味で馬服を号にした」という説を紹介しています。
 
[] 秦の穰侯魏冉が客卿竈を秦王に推挙しました。
秦王は竈に斉を討伐させ、剛と寿を取って陶邑(魏冉の邑)を拡大しました。
これは『史記田敬仲完世家』『六国年表』『資治通鑑』の記述に基づいています。
史記秦本紀』『穣侯列伝(巻七十二)』は前年の事としています。
また、『六国年表』には「秦と楚が斉の剛寿を撃った」と書かれています。
 
[] 『史記周本紀』に周と秦に関する故事が書かれています。
赧王四十五年(本年)、周君西周君。恐らく武公)が秦に行きました。
この時、説客が周最(周冣。『索隠』に「周の公子」とあります。西周の公子だと思われます)にこう言いました「公(周最)は秦王の孝を褒めたたえて、応(地名。『戦国策西周策』では「応」ではなくて「原」になっています。どちらも周の地です)太后(秦昭王の母太后の養地として贈るべきです。秦王は必ず悦び、公(周最)に秦との交わりができます。そうなれば、周君は必ず公の功績を認めます。もし逆に秦と周の関係が悪化したとしても、周君を秦に入るように勧めた者の罪となります(秦と周の関係が善くなれば周最の功績であり、関係が悪化したとしても、周最は秦に恩を売るために働いたので責められることはありません)。」
史記』も『戦国策』もこの後、どうなったかは書いていません。
 
この頃、秦が周を攻撃しました。
そこで周最が秦王に言いました「王のために計るとしたら、周を攻めるべきではありません。周を攻めても利を得ることはなく(周は天子の国なので宝物が豊富にありますが、領地が狭く、実益はありません)(天子を侵したという)威声が天下を畏れさせるだけです。天下が威声によって秦を畏れたら、必ず東の斉と同盟します。秦の兵が周で疲弊し、天下が斉と一つになったら、秦が天下の王を称すことができなくなります。天下は秦が疲弊することを願っているため、王に周攻撃を勧めていますが、秦が天下の勧めを受けて疲弊したら、号令も出せなくなります。」
 
秦と周の関係は『帝王世紀』にも書かれています。
赧王四十五年(本年)、赧王(『史記・周本紀』では周君です)が秦に入りましたが、秦の罪を得ました。秦が周を攻撃します。
しかしある者(恐らく周最)が秦王を諫めたので攻撃が中止されました。
赧王は天子の位にありましたが、諸侯の侵犯を受けており、実際は家人(庶民)と変わりがありませんでした。民に対しても負債があり、それを返す力がなかったため、台に登って逃げていました。周人はその台を「逃債の台」と名付けました。洛陽南宮の●台(●は「言」に「移」。恐らく晋代以前の名称)がそれです。
 
 
 
次回に続きます。