戦国時代96 東周赧王(三十四) 范睢登場 前270年(二)
今回は東周赧王四十五年の続きです。
[四] 秦で「遠交近攻(遠国と結んで隣国を攻める)」という方針を提唱した范睢という人物が登場します(「范睢(左が「目」)」ではなく「范雎(左が「且」)」とする説が有力ですが、『資治通鑑』に倣って「范睢」と書きます)。
范雎は魏人で、字を叔といいます。諸侯を遊説して魏王に仕えようとしましたが、家が貧しいため資金がありません。そこでまず魏の中大夫・須賈に仕えました。
須氏は密須氏の子孫、または太昊の後裔になります。元は須句といったようです。
ある時、須賈が使者として斉に行きました。『范睢列伝』は「須賈が魏昭王のために使者になった」としていますが、本年は魏安釐王七年です。昭王は安釐王の前の魏王です。『范睢列伝』の誤りか、七年以上前の事を書いているのかはわかりません。
范睢も須賈に従いました。しかし斉に留まって数カ月が経ちましたが、何の結果もありません。
斉襄王は范睢の弁舌が優れていると聞いたため、人を送って金十斤と牛・酒を下賜しました。范睢はこれを辞退します。
ところが須賈は范睢が魏国の陰事(機密)を斉に漏らしたために礼物を贈られたと思い、激怒しました。須賈は范睢に牛と酒を受け取らせ、金を返却するように命じます。
暫くして一行は魏に帰国しました。
怒りが収まらない須賈は魏相に報告しました。魏相は魏の公子で魏斉といいます。
魏斉も激怒し、部下に命じて范睢を笞打たせました。強打された范睢は脅(肋骨)を折り、歯が抜け落ちます。
范睢が死んだふりをすると、魏斉は簀(竹の蓆)で包んで厠に置き、酒宴で酔った客に小便をかけさせました。後人に対して妄りに発言しないように戒めるためです。
范睢が簀に包まれたまま守者(看守)に言いました「公(あなた)が私を逃がしてくれたら、必ず厚く感謝します。」
守者は魏斉に謁見し、簀に巻いた死人を棄てることを願い出ました。
酔っていた魏斉は同意します。
こうして范睢は逃げ出すことができました。
暫くして後悔した魏斉は范睢を探させましたが、既に魏人の鄭安平が范睢を隠して逃走していました。范睢は改名して張禄と名乗ります。
この時、秦の謁者(官名。国君の近侍)・王稽が魏を訪れていました。
鄭安平は卒(役夫)を装って王稽に侍ります。
王稽が鄭安平に問いました「魏の賢人で共に西游(秦に行く)することを望む者はいないか?」
鄭安平が言いました「臣の里中に張禄先生がおり、あなたに会って天下の事を語りたいと思っています。しかし彼には仇がいるので、昼の間は出てこようとしません。」
王稽が言いました「夜になったら共に来なさい。」
夜、鄭安平と張禄が王稽に会いに行きました。
范睢の話を聞いた王稽はその賢才を認めてこう言いました「先生は三亭の南(もしくは「三亭岡」)で私をお待ちください。」
范睢と王稽は時間を決めて別れました。
王稽が魏王に別れを告げて去りました。三亭の南で范雎を車に乗せて秦に入ります。
湖関まで来た時、西から東に向かってくる車騎が見えました。
范雎が問いました「向こうから来るのは誰ですか?」
王稽が言いました「秦相・穰侯(魏冉)が東行して県邑を巡視しているのです。」
范雎が言いました「穰侯は秦の政権を専らにしており、諸侯の客を入れるのを嫌っていると聞きました。私は辱めを受けることになるでしょう。車の中に隠れています。」
やがて魏冉が接近しました。王稽を慰労し、車を止めて「関東に変化はあったか?」と問います。
王稽は「ありません」と答えました。
魏冉が再び問いました「謁君が諸侯の客子(説客)と一緒にいるということはないか?彼等は無益で、人の国を乱すだけだ。」
王稽は「そのようなことはありません」と答えました。
二人が別れてから范雎が言いました「穰侯は智士だが、何かを発見するのは遅い。先ほどは車中に人がいると疑ったのに、探すのを忘れていた。」
范雎は車を降りて「彼は必ず後悔して戻ってくる」と言うと、十余里を走り去りました。
暫くして魏冉が引き返します。車の中を捜索して説客がいないことを確認してからやっと納得しました。
王稽と范雎は秦都・咸陽に入りました。
王稽が秦王に使者の任務の報告をしてから、こう言いました「魏に張禄先生という人物がおり、天下の辯士です。彼が『秦王の国は累卵(卵を積み上げたように不安定な状態)の危機がある。臣を得れば安定できるが、文書で伝えるわけにはいかない(直接会って話をしたい)』と言ったので、車に乗せて連れてきました。」
しかし秦王は王稽の言を信じず、范睢を館舍に住ませ、粗末な食事を与えて待機させました。こうして一年余が経ちます。
当時の秦は昭王が即位して三十六年になり(秦昭王三十六年は前年です)、南は楚の鄢・郢を攻略し、東は斉を破り、三晋を苦しめていました。武功を誇る昭王は自分に自信があり、辯士を嫌って信用しようとしません。
そこで范雎は昭王に上書してこう伝えました「明主が政治を行う時は、功がある者は賞さなければならず、能力がある者は官を与えなければならず、労が大きい者はその禄を厚くし、功が多い者はその爵位を尊ばせ、民衆を治める力がある者はその官を大きくしなければならないといいます。だから無能の者が職位に就くことなく、有能の者が隠れることもないのです。もし臣の言が正しいと思うなら、それを実行してますます道(政道)を利するべきです。もし臣の言が正しくないと思うなら、臣を久しく留めても無益です。こういう言葉があります『庸主(凡庸な国君)は愛する者を賞して嫌う者を罰するが、明主はそうではない。功がある者に必ず賞を与え、罪がある者に必ず刑を与える。』臣の胸は椹質(腰斬で使う刑具)を受けるほど厚くなく、腰も斧鉞を受けるほど太くはないので(死刑に処されたくはないので)、疑事(根拠がない事)で王を試すつもりはありません。臣を賎人とみなして軽辱するのはわかりますが、王に臣を推挙した者(王稽)の臣に対する保証を重視しないのですか。
周には砥砨があり、宋には結緑があり、梁には県藜があり、楚には和朴があると聞いています(すべて宝玉)。この四宝は土の中で生まれ、良工もただの石だと思っていましたが、最後は天下の名器となりました。聖王が棄てた者は国家を厚くできないと思いますか(賎しい者でも国を大きくすることはできます。土中の石が宝玉になるのと同じで、見出されていないだけです)。家をうまく厚くする者は国から利益を取り、国をうまく厚くする者は諸侯から利益を取るといいます。しかし天下に明主がいたら、諸侯は勝手に自分を厚くすることができません。なぜなら、明主は諸侯が栄とすることを削るからです(諸侯の権勢を奪うからです)。良医は病人の死生を知り、聖主は成敗の事を明らかにするものです。利があれば行い、害があれば棄て、疑いがあれば少しずつ試します。たとえ舜・禹が生き返ったとしても、この方法を変えることはできません。これ以上深い話は、敢えて文書に残すわけにはいきません。逆に浅い話ならお聞かせする必要もありません。臣が愚かで王の心に合わないのでしょうか。それとも臣を勧めた者が賎しいので用いるつもりがないのでしょうか。もしそうではないのなら、わずかでも游観の時間をいただき、謁見できることを願います。もし一語話して意味がないと判断したら、斧鑕(刑具)に伏させてください(処刑してください)。」
次回に続きます。