戦国時代97 東周赧王(三十五) 遠交近攻 前270年(三)

今回で東周赧王四十五年が終わります。『史記范睢列伝(巻七十九)』と『資治通鑑』から范睢について書いています。
 
[(続き)] 上書を読んだ秦王は范睢の才能を知って悦び、王稽に謝罪して伝車を送りました。范雎が召されます。
秦王は離宮(別宮)で范睢に会うことにしました。
范睢は永巷(掖庭。宮人が生活する地域。場合によっては宮中の獄)の場所を知らないふりをして中に入っていきました。
秦王が来たため宦者が范睢を追い出そうとして怒鳴りました「王の御到着だ!」
すると范睢はわざと秦王に聞こえるように言いました「秦のどこに王がいるのだ。秦には太后と穰侯がいるだけだ。」
秦王は宦者と争っている声を聞くと、すぐに范睢を迎えてこう言いました「寡人はもっと早くこの身をもって命(意見)を受け入れるべきでした。義渠(儀渠)の事が急だったため、寡人は朝も夜も太后に指示を仰いでいました。今、義渠の事がやっと解決したので(義渠は東周赧王四十三年・前272年に滅ぼされました)、寡人は命を受けることができます。閔然(昏昧)不敏(不聡明)ですが、賓主の礼(賓客を迎える礼)をとらせてください。」
范雎は恭しく礼を返しました。
この日、范雎が秦王に謁見する様子を見た群臣は、皆、范睢に恭敬な態度をとるようになり、様相を改めました。
 
秦王が左右の人払いをしました。宮内には誰もいなくなります。そこで秦王が跪いて范睢に問いました「先生は寡人に何の教えを与えてくださるのですか?」
范睢は「はい、はい(唯唯)」と言うだけで話そうとしません。
秦王が三回聞いても范睢の反応は同じです。
秦王が言いました「先生は寡人に教えをくださらないのですか?」
范睢が言いました「そうではありません。臣は羇旅の臣(外から来た臣)なので、王との関係がまだ疎遠です。しかし王に話そうと思っていることは全て匡君の事(国君を正す事)であり、骨肉(王の親族)に関係します。臣は愚忠を尽くしたいと思っていますが、王の心がわからなかったので、王が三回質問しても応えることができなかったのです。臣は畏れて話をしないのではありません。臣は今日の言を述べたら、明日には誅に伏さなければならないと知っていますが、それを避けるわけにはいきません。そもそも、死とは誰も免れることができません。もし臣の死が少しでも秦の助けになるのなら、それは臣が大いに望むことであり、そのような死を得られるのなら生よりも価値があります。臣の死後、天下の士が口を閉ざして足を留め、秦に来なくなることだけを恐れます(『范睢列伝』の范睢の言葉はとても長いので三分の一程度に省略しました)。」
秦王が跪いたまま言いました「先生は何を言うのですか。秦は遠く離れた辺鄙な地で、寡人は愚かかつ不肖な者です。それでも寡人が先生を得ることができたのは、天が寡人を汚れていると思い、先生を与えて先王の宗廟を存続させようとしているからです。寡人が先生の命を受けることができるのは、天が先王に幸を与え、その孤児(子孫)を見棄てないからです。事の大小に関係なく、上は太后から下は大臣に至る事まで、ことごとく先生の教えを請います。寡人を疑う必要はありません。」
范睢が秦王を拝し、秦王も范睢を拝しました。
范睢が言いました「大王の国は四方が固い守りで塞がれており、北には甘泉(甘泉山)谷口があり、南には涇水渭水が流れ、右には隴蜀、左には関阪を擁しています。また、奮撃(勇士)は百万、戦車は千乗を数え、利があれば出征し、不利になれば戻って守ることができます。これは王者の地というものです。更に民は私闘を恐れながら公戦では勇敢になります。これは王者の民というものです。王はこの二者を併せ持っているのです。秦卒(秦軍)の勇と車騎の衆(多勢)を持って諸侯を治めるのは、韓盧(駿犬)に蹇兔(足を怪我した兔)を追わせるようなものなので、必ず覇王の業を成就させることができます。ところが群臣がその職位を全うしないため、十五年も関を閉ざし、兵を用いて山東を窺おうとしません。これは穰侯が秦のために計を謀っても忠を尽くしておらず、大王の計を失わせているからです。」
秦王が跪いて「寡人の過ちについて教えてください」と言いました。
しかし范睢は周りで話を聞いている者が複数いることに気づいていました。警戒した范睢は内政について語らず、まず外事について説明して秦王の反応を確認することにしました(内事に関しては東周赧王四十九年・前266年に話します)
范睢が言いました「穰侯は韓、魏を越えて斉の剛や寿を攻めましたが、これは良計ではありません。(遠く斉を攻めても)兵の数が少なければ斉を傷つけることができず、兵が多ければ秦に害をもたらします。王は秦が出す兵を少なくして韓魏に多くの兵を動員させようとしているようですが、これは不義(道理がない事)です。與国(同盟国。韓魏)は実際には秦と親しくありません。人の国を越えて(斉を)攻めるのは相応しいことでしょうか。この計は考慮が欠けています。
かつて斉湣王は南を攻撃し、楚軍を破って楚将(唐昩)を殺し(東周赧王十四年301年)、千里の地を開きましたが、最後は一尺一寸の地も得ることができませんでした。これは地を欲しなかったからではありません。形勢によって地を有すことができなかったのです。諸侯は斉が疲弊しており、君臣が不和であるのを見て兵を起こしました。その結果、斉は大敗しました(赧王三十一年284年)。斉の士は辱められ、兵は崩壊し、皆が王を咎めて言いました『誰がこの計を立てたのですか?』すると王は『文子孟嘗君田文)だ』と答えました。これが原因で大臣が乱を起こし、文子は出奔しました。斉は遠い楚を攻めて大勝しましたが、肥えたのは韓と魏です(だから斉は大敗することになったのです)。これは賊に兵(武器)を貸して盗に食糧を贈るようなものです。
王は遠くと交わって近くを攻めるべきです(遠交而近攻)。そうすれば、一寸の地を得たら王の一寸の地となり、一尺の地を得たら王の一尺の地となります。近くを棄てて遠くを攻めるのは、おかしなことではありませんか。
以前、中山の国も方五百里の地をもっていましたが、趙が単独で呑み込みました。趙は功をなし、名を立てて利を手にしました。今、天下に趙を害すことができる国はありません(だから趙は後回しにするべきです)。韓と魏は中国(中原)に位置する天下の枢(中枢)です。王が霸を称えたいのなら、中国に接近して天下の枢となり、楚と趙を威圧するべきです。楚が強くなったら趙を秦に従わせ、趙が強くなったら楚を秦に従わせます。楚と趙が秦に従うようになれば斉も必ず懼れます。恐れた斉は必ず辞を低くし、重幣を贈って秦に仕えます。斉が秦に従えば韓と魏も虜にできます。」
秦王が問いました「寡人は魏と親しもうと思って久しくなります。しかし魏が頻繁に態度を変えるため、親しくできません。魏と親しくするにはどうしたらいいでしょうか。」
范雎が答えました「まずは辞を低くして重幣を贈ります。効果がなければ領土を割いて賄賂とします。それでも効果がなければ兵を挙げて討つことになります。」
秦王は「寡人は謹んで命に従います」と言って范睢を客卿に任命し、共に兵事を謀るようになりました。
范雎の策を「遠交近攻」といいます。遠い国と和を結んで近くの国を攻めていくという策です。
この方針を確立した秦は急速に天下統一に向かって進んでいくようになります。

戦国時代の秦と隣国の韓・魏の地図です。『中国歴史年表』を元にしました。
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次回に続きます。

戦国時代98 東周赧王(三十六) 秦悼太子の死 前269~267年