戦国時代98 東周赧王(三十六) 秦悼太子の死 前269~267年

今回は東周赧王四十六年から四十八年です。
 
赧王四十六年
269年 壬辰
 
[] 秦の中更胡傷(胡陽)が再び趙の閼與(『史記六国年表』では閼與は韓領。前年参照)を攻めましたが攻略できませんでした。
 
閼與の戦いがあった年に関して諸説があります。
史記秦本紀』は本年に「中更胡傷が趙の閼與を攻めたが攻略できなかった」としており、前年の戦いは書いていません。
逆に『趙世家』と『六国年表』は前年に閼与の戦いを書いており、本年の戦いは書いていません。
資治通鑑』はそれぞれの記述を総合し、前年に秦が閼與を攻めて趙奢に撃退され、本年も攻撃して失敗したとしています。
1975年に湖南省雲夢県で秦代の竹簡が発見されました。これを『雲夢秦簡』といいます。法律、文化、医学等、幅広い記述が残されており、その中の『編年紀』には昭襄王(昭王)から始皇帝時代の出来事が書かれています。それを見ると、昭王三十八年に「閼與」とあります。秦昭王三十八年は本年に当たります。
秦の記録である『雲夢秦簡』を信用するとしたら、閼與の戦いは前年ではなく本年に起きたことになります(『秦本紀』は『雲夢秦簡』を参考にしたと考えられます)
 
 
 
翌年は東周赧王四十七年です。
 
赧王四十七年
268年 癸巳
 
[] 秦王が范睢の謀(遠交近攻。東周赧王四十五年270年参照)を用いて五大夫綰に魏を攻撃させました。懐を攻略します。
 
これは『資治通鑑』の記述で、『史記・范睢列伝(巻七十九)』と『六国年表』を元にしています。『秦本紀』では二年後に懐を攻略しています。
 
 
 
翌年は東周赧王四十八年です。
 
赧王四十八年
267年 甲午
 
[] 秦の悼太子が人質として魏に行きましたが、魏で死にました。
秦昭襄王四十年の事なので、太子もそれなりの歳になっていたはずです。
(霊柩)が秦に還されて芷陽に埋葬されました。
 
二年後に太子の弟にあたる安国君柱が太子に立てられました。後の孝文王です。孝文王の孫が中国を統一する始皇帝なので、悼太子の死によって始皇帝が歴史の表舞台に登ることができたといえます。
 
 
 
次回に続きます。