戦国時代 魏の出来事(1)

史記魏世家』に魏安釐王十一年(東周赧王四十九年266年)頃の魏に関する出来事が書かれています。

戦国時代99 東周赧王(三十七) 范睢の報復 前266年

具体的にいつの事かははっきりしません。
二回に分けて紹介します。
 
秦昭王が左右の近臣に問いました「今の韓魏とかつての韓魏ではどちらが強いか?」
近臣は「今は以前の強さに及びません」と答えました。
王が再び問いました「今の如耳魏斉とかつての孟嘗や芒卯ではどちらが賢人だ?」
近臣は「今は以前に及びません」と答えます。
そこで王が言いました「孟嘗芒卯の賢才を使い、強盛な韓魏を率いて秦を攻めても寡人に手が出なかった。今、無能な如耳魏斉が弱国となった韓魏を率いて秦を攻めても、寡人に敵わないのは明らかだ。」
左右の者は皆「その通りです」と言いました。
ところが中旗(人名)が琴を持って言いました「王による天下の観察は誤っています。晋に六卿がいた時、最も強かった知氏が范氏と中行氏を滅ぼし、更に韓氏と魏氏の兵を率いて晋陽で趙襄子を囲みました。晋水を決壊させて晋陽の城を水に浸したため、城内は三版を残して水没します。知伯が水攻めを行った時、魏桓子が御者を、韓康子が参乗を勤めていました。知伯がこう言いました『わしは水によって人の国を亡ぼすことができると今始めて知った。』汾水は安邑(魏都)を水没させ、絳水は平陽(韓都)を水没させることができるため、知伯の言葉を聞いた魏桓子は肘で韓康子を打ち、韓康子は魏桓子の足をつつき、車上で肘と足を使って合図を送りました。その結果、後に知氏は地を分割され、身が死んで国が亡び、天下の笑い者となったのです。今、秦兵は強盛とはいえ、当時の知氏ほどではありません。韓魏は弱いとはいえ、当時の晋陽よりましです。今は肘や足で秘かに合図を送っている時です。王は彼等を軽んじてはなりません。」
秦王は恐れて気を引き締めました。
 
斉と楚が共に魏を攻めました。魏から多数の使者が発せられ、秦に援軍を求めます。しかし秦の援軍は来ませんでした。
魏人で唐雎という者が九十余歳になっていましたが、魏王にこう言いました「老臣を西に送って秦王を説得させてください。臣が秦国を出る前に援軍を出発させます。」
魏王は再拝するとすぐに車を準備して送り出しました。
秦に到着した唐雎が秦王に謁見しました。
秦王が言いました「丈人(老人)が慌てて遠方から来たが、辛苦だったであろう。魏から援軍を求める使者が多数来たから、寡人は魏の危急を知っている。」
唐雎が言いました「大王が魏の危急を知っているのに援軍を送ろうとしないのは、策謀を用いる臣が無能だからではありませんか。魏は一万乗の国です。それなのに西を向いて秦に仕え、東藩と称して秦の冠帯を受け取り、春秋の祠(奉納。朝貢)を行っているのは、強大な秦が和を結ぶに足りるからです。今、斉楚の兵が協力して魏の郊外に至ったのに、秦は援軍を出そうとしません。これは魏がまだ緊急の状態に陥っていないと思っているからでしょう。しかし魏を大急に陥らせ、斉楚に地を割いて合従を約束させたら、王は何を救うつもりですか?魏の危急を待って救うのは、東藩の一つである魏を失い、二つの敵である斉楚を強くすることになります。これで王に何の利があるというのですか?」
秦昭王は急いで援軍を発しました。
魏は安定を取り戻しました。
 
趙が人を送って魏王にこう伝えました「趙のために范痤を殺したら、七十里の地を献上しよう。」
魏王は同意して官吏を派遣しました。
官吏が范痤の家を包囲すると、范痤は屋根に上ってこう言いました「死んだ痤(私)を使って利益を求めるよりも、生きた痤を使って利益を求めるべきだ。死んだ痤を送っても趙は魏王に土地を譲らないだろう。その時、王はどうするつもりだ。先に割譲する地を定めてから私を殺すべきだ。」
官吏の報告を聞いた魏王は納得しました。
命拾いした范痤は信陵君魏無忌に上書しました「痤は以前、魏の相を勤めていましたが罷免されました。今回、趙が領地と交換に痤を殺すように要求し、魏王はこれに同意しました。もしも強秦が趙の欲に倣ったら(趙のやり方を真似て、領地を割譲することで信陵君を殺すように要求したら)、あなたはどうしますか?」
信陵君が魏王を諫めたため、范痤は助かりました。
 
 
 
次回に続きます。