戦国時代 魏の出来事(2)

史記魏世家』から魏安釐王時代の出来事を紹介しています。

戦国時代 魏の出来事(1)

前回の続きです。
 
魏王はかつて秦に助けられたことがあったため、秦と親しくして韓を攻めることで失った領地を恢復しようとしました。しかし魏無忌(『戦国策魏策三』では朱己という人物になっています。魏無忌と同一人物かどうかはわかりません)が魏王を諫めて言いました「秦は戎翟と同俗で虎狼の心を持っており、貪婪凶暴で、利を好んで信がなく、礼義徳行を知りません。もしも利があると知れば親戚兄弟も顧みず、禽獣のようにもなれるということは、天下が知っています。彼等が厚恩を施して徳を積むことはありません。太后は秦王の母でしたが、憂いて死にました太后は秦の宣太后を指すと思いますが、宣太后は翌年に死にます)。穰侯は秦王の舅(母の兄弟)であり、並ぶ者がない功を立てましたが、最後は駆逐されました。秦王の二人の弟は罪もないのに国を奪われました。親戚に対してもこのようなのですから、仇讎の国に対してならなおさらでしょう。
今、王は秦と共に韓を攻めようとしていますが、これはますます秦の患(禍)を近づけることになるので、臣には理解できません。王がこの道理を分からないとしたら、王は不明(聡明ではないこと)というべきです。群臣が王に進言しないとしたら、群臣は不忠というべきです。
今、韓氏は一人の女子が一人の弱主を奉じており、国内が大いに乱れています(詳細は不明です)。その上、国外で秦魏の強兵と交わったら、韓が亡ばないと思いますか。韓が亡んだら秦が鄭の地を有して大梁に隣接します。これを安全だと思いますか。強秦との親交に頼ることが利になると思いますか。
秦は事が無い国(事を起こさない国。野心がない国)ではないので、韓が亡んだら必ず更に事を起こし、更に事を起こす時には必ず容易で利益がある目標を探します。容易で利益がある目標を探した場合、楚と趙を撃つことはありません。それはなぜでしょうか。山を越えて河を渡り、韓の上党を通って強趙を攻めたら、閼與の失敗を繰り返すことになるので、秦はこの方法を採りません。河内に道をとって鄴と朝歌を後ろにし、漳水と滏水を渡って邯鄲の郊外で趙兵と戦ったら、知伯の禍を招きます。だから秦はこの方法も採りません。楚を攻撃するには山谷(険路)を越えて三千里を進み、冥阨の塞を攻めなければなりません。その道は遠く、攻撃も困難なので秦はこの方法も採りません。河外の道を選んで大梁を後ろに、蔡と召陵を右にし、陳郊で楚兵と決するという方法も、秦は取りません。よって秦が楚と趙を攻めるはずがなく、(韓魏の東にある)衛と斉を攻めることもありません。
秦が韓を亡ぼしてから更に兵を出す日が来たら、魏の他に攻める国はありません。秦には懐、茅、邢丘があるので、垝津(または「延津」)に城を築いて河内に臨んだら(または「秦には懐、茅、邢丘、安城、垝津があるので、河内に臨んだら」。原文「秦固有懐、茅、邢丘、(安)城、垝津,以臨河内」)、河内の共と汲が危険になります。また、秦が鄭国の故地(韓都新鄭)を擁し、垣雍を得て熒沢を決壊させ、大梁に水を入れたら、大梁は必ず亡びます。
王の使者を秦に送ることが既に過ちになのに、更に秦で安陵氏(安陵国。魏の属国)を誹謗したら、秦は以前から安陵氏を誅滅したいと思っているので、秦に安陵氏を攻撃させることになります(秦と同盟するために使者を送ることが既に過ちなのに、そのうえ安陵氏を誹謗したら、秦に安陵氏を攻撃させる口実を与えて過ちを重ねることになってしまいます。もしくは「王の使者が出発し、秦で誤って安陵氏を誹謗したら、秦は久しく安陵氏を誅殺したいと思っているので、秦が魏の安陵氏を攻撃することになります。」原文は「王之使者出過而悪安陵氏於秦,秦之欲誅之久矣」です。いずれにしてもなぜ安陵氏が巻き込まれるのかが分かりません)。秦の葉陽、昆陽は魏の武陽と隣接しています。秦が使者の誹謗を聞き、それに従って安陵氏を亡ぼしたら、舞陽の北から東に向かって許に臨むので、南国(魏の南。韓領)が必ず危うくなります。これで魏国に害がないと思いますか。
韓を憎み、安陵氏を愛さないのはかまいません。しかし秦が南国を愛さない(南国を攻撃する)ことを憂いないのは誤りです。かつての秦(の国境)は河西(絳)にあり、梁(魏都大梁)から千里も離れていました。河山が遮り、間に周韓もありました。しかし林郷の軍(秦が林郷で魏を破った戦い。いつの戦いかはわかりません)から今に至るまで、秦は七回魏を攻めて五回囿中(圃田。地名。または「囿」ではなく「国」の誤りで、「国内」)に入りました。辺境の城はことごとく攻略され、文台は破壊され、垂都(魏の邑)が焼かれ、林木が伐られ、麋鹿が狩りつくされ、しかも国都も包囲されました。また、秦軍は長駆して梁北に達し、東は陶衛の郊外に至り、北は平監に至りました。秦に亡ぼされた地域は、山南山北(山は華山)、河外河内を合せて大県数十(または「数百」)、名都(大邑)数百(または「数十」)に及びます。秦が河西晋にあり、梁から千里も離れていた時でも禍はこのようでした。もしも秦に韓を亡ぼさせたら、秦は鄭の地を擁すので、(秦と魏を)河山が遮ることはなく、間に周韓も存在せず、大梁からの距離はわずか百里となり、必ず禍が始まります。
以前、合従が成功しなかったのは、楚魏が互いに疑って、韓も参加しなかったからです。今、韓は秦の兵を受けて三年が経ち、秦は韓を屈服させて講和にもちこもうとしています。ところが、韓は滅亡するとわかっているのに秦に従わず、質(人質)を趙に送り、趙が天下のために雁行頓刃(出兵して陣を構えること)することを願っています。楚と趙は必ず兵を集結させます。両国は秦の欲が際限なく、天下の国を全て亡ぼして海内を臣下にしなければ終わることがないと知っているからです。よって臣は合従の策をもって王に仕えることを願います。王は速やかに楚趙の盟約を受け入れるべきです。(趙に倣って)韓の質を取って韓を存続させ、その後、故地を求めれば、韓は必ず従います。こうすれば、士民を労することなく故地を得ることができるので、その功績は秦と共に韓を攻めて強秦の禍と隣接するよりも大きなものとなります。
韓を存続させて魏が安定し、しかも天下を利することができるのは、王にとって天の時というものです。共と甯(どちらも地名)の道を開いて韓の上党に通じさせ、その道を安成(魏領)に通せば、人々は上党を出入りする度に賦税を払うので、魏は韓に上党を二つ目の質とさせることができます(魏が韓を守れば上党を通る人の関税が魏に入るようになります。逆に、韓が滅べば魏の税収もなくなります。上党は韓を存続させるために魏に入れた担保のような存在になります)。上党の賦税があれば国を富ませることができます。しかも、韓は必ず魏を徳とし、魏を愛し、魏を重んじ、魏を畏れます。よって、韓が魏に反すことはなく、魏に属す県のようになります。魏が韓を得て県にできたら、衛、大梁、河外が安全になります。逆に韓を存続させなかったら二周と安陵が必ず危うくなり、楚と趙が大破したら衛と斉がますます恐れます。そうなったら天下が西を向いて秦に駆け込み、入朝して臣となる日も遠くないでしょう。」
魏王が進言を聞いたかどうかは記されていません。