戦国時代100 東周赧王(三十八) 趙の觸龍 前265年

今回は東周赧王五十年です。
 
赧王五十年
265年 丙申
 
[] 秦の宣太后が死にました。
九月、穰侯魏冉が食邑の陶に遷りました。
 
魏冉は范雎によって政権を奪われました。
資治通鑑』の編者司馬光はこう書いています「穰侯は昭王の即位を援けて災害(内乱)を除き、白起を将に推挙して南は鄢郢を取り、東は斉に接するまでの地を支配下に置き、天下の諸侯を稽首して秦に仕えさせた。秦がますます強大になれたのは、穰侯の功である。確かに専横と驕貪によって禍を招くことになったが、范睢の言が全て正しいわけではない。范睢という者は、秦に対する忠心によって策謀を成しているのではなく、穰侯の地位を欲していたから、その喉をつかんで奪ったのである。彼は秦王に母子の義を断たせ、舅甥(舅は母の兄弟の意味)の恩を失わせた。范睢とは他者を傾危させる(傾かせて危うくさせる。足を引っ張る)士である。」
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
史記秦本紀』は「十月、秦の宣太后が死に、芷陽酈山に埋葬された。九月、穰侯魏冉が食邑の陶に遷った」としており、十月が九月の前にあります。
この記述から十月が歳首(一年の初めの月)になっているようです。
 
ここで歳首の解説をします。
秦が天下を統一するまで、夏暦、殷(商)暦、周暦という三種類の暦が使われてきました。これを「三正」といいます(「正」は正月の意味。三つの暦は正月が異なります。「三正」は本来、「三つの異なる正月」という意味ですが、三種類の暦を指すようになりました)。このうちの夏暦は現在の旧暦(農暦)に近く、農事を行うにあたって最も適切な暦とされています。
夏暦を基準にすると、夏暦の正月は殷暦の二月、周暦の三月にあたります。
「歳首」というのは歴代王朝が一年の初めとした月のことで、通常は正月を指します。商代の歳首(正月)は夏暦の十二月、周代の歳首は夏暦の十一月になります。
一年の各月には冬至がある月を「子の月」として、十二支があてはめられています。夏暦の正月は「寅の月」、商暦の正月は「丑の月」、周暦の正月「子の月冬至がある月)」です。
まとめるとこうなります。
 
夏暦
十月
十一月
十二月
正月
二月
三月
殷暦
十一月
十二月
正月
二月
三月
四月
周暦
十二月
正月
二月
三月
四月
五月
 
ところが秦は公的な歳首と暦上の正月を分けて考えました。
秦は歳首を「亥の月(夏暦の十月)」に置きました。これを「秦正(秦暦。秦の歳首)」といいます。しかし暦そのものは生活に則している夏暦を用いました。そのため、一年の初めは正月ではなく十月になり、歳首の三か月後には暦上の正月を迎えることになりました。
朝廷における祭祀等の行事は十月を歳首として行われますが、農事といった日常生活は夏暦に則っています。現代の日本が年度の初めを4月にしているのに似ています。
その結果、秦代の記述は十月(歳首)から始まり、九月で終わるというややこしいことになりました。
この状況は西漢武帝が暦を改めるまで続きます。

*暦については別の場所でも解説します。
 
[] 秦王が子の安国君柱を太子に立てました(東周赧王四十八年・前267年参照)
 
[] 秦が趙を攻めて三城を取りました。
以下、『史記趙世家』と『資治通鑑』からです。
趙孝成王は即位したばかりだったため、太后が政治を行っています。
秦の攻撃が激しいため、趙は斉に援軍を求めました。
すると斉人はこう要求しました「長安君を質(人質)として送れ。」
長安君は恵文王の少子(孝成王の弟)です。母の太后長安君を寵愛していたため、斉に送ることに反対しました。斉は出兵を拒否します。
趙の大臣が太后を強く諫めましたが、太后は左右の者にこう宣言しました「今後、再び長安君を質にするように勧める者がいたら、老婦はその面に唾をかけてやろう。」
 
余談ですが、太后の年がわかりません。下の文を読むと体がうまく動かないほど老齢だったように思えますが、孝成王と平安君の母ということは、恵文王の妻に当たります(恐らく、翌年に死ぬ恵文后です)。恵文王は武霊王の子で、母は娃嬴です。娃嬴は東周赧王五年(前310年)に武霊王の後宮に入りました。翌年に恵文王が生まれたとしても、恵文王が死んだのは東周赧王四十九年(前266年。前年)なので、四十五歳にもなっていなかったはずです。その妻がかなりの老齢だったとは思えません。また、太后が政権を握ったのは、子の孝成王がまだ若かったからです。若くて親政する力がない王の母が老人だったとも考えられません。
恵文后は翌年に死にますが、老齢で体が不自由だったのではなく、病を患っていたのかもしれません。
 
話を戻します。
左師(左師公)觸龍が太后への謁見を求めました。
太后は觸龍が諫言に来たと思って不快になり、気を荒くして觸龍を待ちます。
觸龍はゆっくり歩いて入室し、座ってからこう言いました「老臣は足が不便なため早く歩くことができず(貴人の前では速足で移動するのが当時の礼です)、久しく謁見もしませんでしたが、自分で自分を赦してきました。しかし太后の体に苦があることを心配して、こうして謁見を願いました。」
太后が言いました「老婦は輦に頼らなければ動けません。」
觸龍が問いました「食は減っていますか?」
太后が言いました「粥を食べるだけです。」
觸龍が言いました「老臣は最近、食欲がないので、自分を奮い立たせて毎日三四里は歩き、少しでも食欲を出そうとしています。おかげで体も楽になりました。」
太后は「老婦にはとてもできません」と言いました。
世間話をしているうちに、太后の顔から不和の色が少しずつ消えていきます。
觸龍が言いました「老臣には賎息(愚息)の舒祺がいます。最も年下で、不肖な子です。しかし臣は老衰したので彼を憐愛しています。黒衣(衛士)の欠員を補って王宮の守りに就かせたいと思うので、このことを敢えて太后にお願いします(昧死以聞)。」
太后が問いました「わかりました(敬諾)。年はいくつですか?」
觸龍が答えました「十五歳です。まだ若すぎますが、溝壑を埋める前に(死んで骨を埋められる前に)託したいと思っていました。」
太后が問いました「丈夫(男)も少子を愛すものですか?」
觸龍が答えました「婦人より愛すものです。」
太后が笑って言いました「婦人も甚だしいものです。」
觸龍が言いました「老臣が見るに、媼(老婦人。ここでは太后長安君よりも燕后を愛しているようです。」
燕后は趙太后の娘で燕の国君に嫁ぎました。
太后が言いました「それは誤りです。長安君に対する愛の方が大きいです。」
すると觸龍はこう言いました「父母が子を愛したら深遠の計を考えるものです。媼が燕后を送り出した時、踵にすがりついて泣いたのは、遥か遠い燕国に行ってしまうために哀しくなったからです。燕に去ってからも子を想わなかったはずがありません。しかし祭祀のたびに『娘を帰らせないでください』と祈りました。これは長久の計のためであり、娘の子孫が王位を継承して欲しいと願っているからではありませんか?」
太后は「そうです(然)」と答えました。
觸龍が続けました「今から三世前までさかのぼって考えてください。趙王の子孫で侯になった者の中に、今まで爵位を継承している者がいますか?」
太后は「いません」と答えました。
觸龍が言いました「趙だけでなく、諸侯においてはどうですか(王の子孫で侯を継承している者はいますか)?」
太后は「聞いたことがありません」と答えました。
觸龍が言いました「禍が近い場合は自分の身におよび、禍が遠い場合は子孫に及んでいるから、侯を継承している者がいないのです(侯の爵位に就いても本人か子孫に禍が起きているから爵位が続かないのです)。人主の子で侯になった者は皆、不善(能力がない)なのでしょうか(国王の子で侯になった者は能力がないから子孫が継承できないのでしょうか)?そうではありません。位が尊いのに功がなく、俸禄が厚いのに労がなく、それなのに多数の重器(宝器)を享受しているからです。今、媼は長安君に尊位を与え、膏腴(肥沃)の地に封じ、多数の重器を与えていますが、国に対して功を立てる機会を与えていません。もしも一旦に山陵が崩れたら太后が死んだら)長安君は何に頼って趙国で位を存続すればいいのでしょうか?媼が長安君のために長い計を立てようとしないので、老臣は長安君に対する愛が燕后に対する愛に及ばないと思ったのです。」
太后は「わかりました(諾)。あなたの自由にしなさい」と言いました。
こうして長安君が人質となり、車百乗を率いて斉に赴きました。
 
斉は約束通り兵を出し、秦は退却しました。
 
この話を趙の賢人子義が聞いてこう言いました「人主の子には骨肉の親情があるが、それでも無功の尊位と無労の奉禄に頼って金玉のような重宝を守ることはできない。我々のような庶人ならなおさらだ。」
 
[] 斉の安平君田単が趙軍を率いて燕を攻め、中陽(または「中人」)を取りました。
また、韓を攻めて注人を取りました。
 
今回、趙軍を率いた田単は翌年に趙の相になります。上述のように斉は秦に攻撃された趙を援けました。趙と斉は深い関係にあったようです。
 
[] 斉襄王が在位十九年で死に、子の建が立ちました。
建はまだ若かったため、国事は全て母の君王后によって決定されました。
斉王建は斉国最後の王になります。
 
[] 『史記六国年表』によると、趙で平原君趙勝が相になりました(前年参照)
 
[]  史記范雎列伝(巻七十九)』によると、秦が韓の少曲と高平を攻めて攻略しました。
范雎の「遠交近攻」策の一環です。
 
 
 
次回に続きます。