戦国時代101 東周赧王(三十九) 上党 前264~261年

今回は東周赧王五十一年から五十四年までです。
 
赧王五十一年
264年 丁酉
 
[] 秦の武安君白起が韓を攻めて九城を攻略し、五万を斬首しました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記韓世家』によると、秦は韓の陘(汾水付近)を攻略し、汾水の傍に城を築きました。
 
[] 斉の田単が趙の相になりました(前年参照)
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、趙の恵文后(恵文王の后。前年参照)が死にました。
 
 
 
翌年は東周赧王五十二年です。
 
赧王五十二年
263年 戊戌
 
[] 秦の武安君白起が韓を攻めて南陽を取り、太行道を攻めて交通を遮断しました。
これは『史記六国年表』と『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』は「南陽」を「南郡」としていますが、恐らく誤りです。
 
史記韓世家』は韓の上党郡守が上党郡を挙げて趙に降ったとしていますが、『趙世家』『資治通鑑』とも翌年に書いています(再述します)
 
[] 楚頃襄王が重病にかかりました。
 
当時、楚の太子と黄歇(春申君)が人質として秦にいました。
黄歇が秦の応侯范睢に言いました「楚王の疾は恐らく治りません。秦は太子を帰らせるべきです。太子が即位できたら、(太子は)秦を尊重して仕え、相国に対しても無窮の徳をもたらすでしょう。(秦は)與国(同盟国)と親しくして、儲(跡継ぎ)による万乗(大国)の援けを得ることになります。太子は帰国しなければ咸陽の布衣(平民)に過ぎません。楚が他の者を国君に立てたら秦に仕えることがなくなり、(秦は)與国を失って万乗との和を絶つことになります。これは良計ではありません。」
范睢が秦王に伝えると、秦王はこう言いました「太子の傅(教育官)を先に送って病状を確認し、戻ってから改めて考えよう。」
 
それを知った黄歇が太子に言いました「秦が太子を留めるのは利を求めたいからです。しかし今の太子の力では秦に利をもたらすことができません。しかも陽文君の二人の子(詳細不明)が楚国内にいます。もし王が大命を卒し(命を落とし)、国内に太子がいなかったら、陽文君の子が跡を継ぐことになるので、太子は宗廟を奉じることができません。秦から逃げて使者と共に国を出るべきです。臣が残って死をもって対応します。」
太子は楚の使者の御者に姿を変えて関を出ました。
黄歇は館舍を守り、訪問者が来ても太子は病にかかったと称して帰らせました。
 
黄歇は太子が遠くまで去った頃を見計らって秦王にこう言いました「楚の太子は既に帰り、遠くに去りました。歇(私)に死を与えてください。」
秦王は怒って黄歇を殺そうとしましたが、范睢がこう言いました「歇は人臣として身をもって主を助けました。太子が即位したら必ず歇を重用します。罪を問わず帰国させて楚と親を結ぶべきです。」
秦王はこれに従いました。
 
黄歇が楚に帰って三カ月が経ちました。
秋、頃襄王が死に、太子(『楚世家』では「太子熊元」)が即位しました。これを考烈王といいます。
黄歇は相(令尹)になり、淮北の地に封じられ、春申君と号しました。
史記春申君列伝(巻七十八)』には「黄歇を春申君に封じて淮北十二県を下賜した」とあります。
 
春申君は孟嘗君、信陵君、平原君と並んで戦国四君と呼ばれています。
 
 
 
翌年は東周赧王五十三年です。
 
赧王五十三年
262年 己亥
 
[] 楚が州(地名)を秦に譲って和を結びました。
史記楚世家』には「楚がますます弱くなる」とあります。
 
[] 『史記秦本紀』によると、五大夫(官名)賁が韓を攻めて十城を取りました。
 
[] 秦の武安君白起が韓を攻めて野王(地名)を占領しました。
上党と韓都新鄭との交通が遮断されます。
 
この時、馮亭が上党守を勤めていました。『資治通鑑』胡三省注によると畢公高の子が馮城を食邑にしたため、子孫が馮氏を名乗りました。かつて鄭国に馮簡子という大夫がいました。
 
馮亭が民と謀って言いました「鄭に通じる道が絶たれたから、秦兵が日々迫っているのに韓が援けに来ることはできない。上党を挙げて趙に帰順しよう。趙が我々を受け入れれば秦は必ず趙を攻める。趙が秦兵に攻められたら必ず韓と親しくする。韓と趙が一つになれば秦に対抗できる。」
馮亭は趙に使者を送りました。
これが秦と趙の戦いを招くことになります。以下、『史記趙世家』と『資治通鑑』からです。
 
数日前に趙王が夢を見ました。趙王は左右の色が違う服を着て飛龍に乗り、天に昇ります。しかし天上に至る前に龍から落ちてしまいました。天から落ちた王の目の前には金玉が山のように積まれていました。
翌日、趙王が筮史(敢は名)を招いて夢を占わせました。敢が言いました「夢で左右の色が違う服を着たというのは、残(害)を表します。飛龍に乗って天に昇ったのに途中で落ちてしまったのは、気がありながら充実していないことを表します。金玉が山のように積まれているのを見たのは、憂いを表します。」
その三日後、韓の上党守馮亭が使者を送ってこう伝えました「韓は上党を守ることができず、秦に献上しました。しかし上党の吏民は皆、趙を慕っており、秦に帰順することを喜んでいません。城市邑(大邑)十七を大王に献上することを再拝して願います。吏民をどう遇するかは王しだいです。」
喜んだ趙王は平陽君趙豹を招いてこう問いました「馮亭が十七の城市邑を献上した。受け入れるべきだろうか?」
趙豹はこう答えました「聖人は無故の利(理由のない利)を甚だしい禍としたものです。」
趙王が問いました「人が我が徳を慕っているのに、なぜ無故なのだ?」
趙豹が言いました「秦が韓地を蚕食(少しずつ蝕むこと)し、中部を絶って交通を遮断しました。よって秦は座して上党を受け取ることができると思っています。韓氏が秦に献上しないのは、禍を趙に移したいからです。秦が労を払ったのに趙がその利を受け取ろうとしていますが、我が国が強大だとしても弱小の国からこのように利を奪うべきではありません。実際は我が国が弱小なのですから、強大な国から利を奪うのはなおさらふさわしくありません。だから無故と言ったのです。受け入れてはなりません。そもそも秦の侵攻は牛田(牛が耕す田地。必ず収穫があることの喩え)のようであり、水路渭水から黄河洛水に通じる水路)を使って食糧を運びながら蚕食しています。上乗倍戦の者(優れた戦車を使い、戦闘力が他国の倍もある国。四方を敵に囲まれて戦に慣れた韓国)が土地を上国(秦)に裂き、その地には秦の政治が既に行き届いているので、秦を難(敵)とするべきではありません。だから受け入れてはならないのです。」
しかし趙王は「百万の軍を発して攻撃しても、年を越えながら一城も得られないこともあるのに、今、十七の城市邑が我が国に贈られた。これは大利というべきだ」と言いました。
趙豹が退出すると、王は平原君趙勝と趙禹を招いて意見を聞きました。
二人はこう言いました「百万の軍を発して攻撃しても、年を越えながら一城も得られないこともあるのに、今、座して十七の城市邑を受け取ることになりました。これは大利です。失ってはなりません。」
王は「善し」と言って趙勝を派遣し、上党の地を受け取らせました。
 
この決定が原因で、趙は長平で秦に大敗して四十余万の兵を失うことになります。
史記趙世家』は長平の戦いの後に「趙王は趙豹の計を聞かなかったことを後悔した」と書いています。
しかし『資治通鑑』胡三省注はこう評しています「秦には天下を併呑する野心があるので、趙が上党を受け入れずに秦がそれを得ていたら、秦は上党を拠点にして趙を攻めただろう。趙の禍は上党を受け入れたことではなく、趙括を用いたことが原因だ。」
趙括は翌年登場します。
 
上党に到着した趙勝が馮亭に伝えました「(私は)敝国の使者を勤める臣勝である。敝国の君が勝を送って命を伝えさせた。太守(馮亭。『正義』によると西漢景帝の時代に初めて「太守」という名称ができたので、正しくは「守」です)に万戸の都(邑)三か所を封じ、県令に千戸の都三か所を封じ、それぞれ世々代々侯の爵位を与える。吏民は皆、爵位三級を増やす。吏民が互いに安んじたので、皆に六金を下賜する。」
馮亭は趙の使者に会わず、涙を流してこう言いました「私には三つの不義を犯すことはできない。国主のために地を守りながら命をかけて堅守することができなかった。これが一つ目の不義だ。秦に割譲されるはずだったのに、国主の令を聴かなかった。これが二つ目の不義だ。その上、国主の地を売って食(俸禄)にしたら、三つ目の不義になってしまう。」
 
尚、『漢書馮奉世伝(巻七十九)』に、「趙は馮亭を華陵君に封じた」とあるため、『資治通鑑』も「上党太守(馮亭)華陵君に封じられた」と書いていますが、『趙世家』にはありません。
漢書馮奉世伝』にその後の事が書かれています。以下、抜粋します。
馮亭は趙将趙括と共に秦と戦って長平で戦死しました(長平の戦いは後述)。この後、馮氏の宗族は分散します。ある者は潞(上党の地名)に留まり、ある者は趙に住みました。趙にいた者は官人や帥将になり、その子が代の相になりました。
秦が六国を滅ぼすと、馮亭の後代に当たる馮無擇、馮去疾、馮劫が秦の将相になりました。
西漢文帝時代に馮唐という者が名声を知られました。馮唐は代相の子にあたります。
西漢後期の名将・馮奉世は馮亭の子孫です。
 
趙は兵を発して上党を支配下に置きました。
同時に廉頗を派遣して長平に駐軍させました。
史記韓世家』は上党が趙に帰順した事を前年に書いています。
 
[] 秦の葉陽君悝が自分の封国に向かいましたが、到着する前に死にました。
史記・秦本紀』の注(集解)は「葉陽君」を「一説では華陽君」としています。
悝という名の公子はかつて鄧に封じられました(東周赧王二十四年291年)。悝は『史記』では高陵君、『資治通鑑』では涇陽君となっています。しかし涇陽君も高陵君も既に追放されています(赧王四十九年266年)。この「葉陽君悝」が誰かははっきりしません。
 
[] 『史記六国年表』によると、楚が黄歇(春申君)を相にしました。
 
 
 
翌年は東周赧王五十四年です。
 
赧王五十四年
261年 庚子
 
[] 秦が韓の緱氏(地名)と藺(または「綸」)を攻めて攻略しました。
史記白起列伝(巻七十三)』に記述があります。
 
[] 楊寛の『戦国史』はこの年に楚が魯を攻めて徐州を取ったと書いています。
東周赧王五十九年(前256年)と秦昭襄王五十三年(前254年)に再述します。
 
[] 『史記六国年表』によると、秦王が南鄭に行きました。
 
[] 『史記六国年表』はこの年に「趙が廉頗を派遣して長平で秦に対抗させた」と書いています(前年、翌年参照)
 
 
 
次回に続きます。