戦国時代102 東周赧王(四十) 長平の戦い 前260年

今回は東周赧王五十五年です。
 
赧王五十五年
260年 辛丑
 
[] 秦の左庶長王齕が上党(前回参照)を攻めて攻略しました。上党の民は趙に奔ります。
 
趙の廉頗が長平に駐軍して上党の民を受け入れ、秦軍に対抗しました。
王齕が何回も趙軍を攻撃しましたが、ことごとく失敗して一裨将と四尉を失います。裨将というのは軍の副将で、尉は軍中諸部の都尉(武官名)です。
 
趙王と楼昌、虞卿が秦にどう対処するかを相談しました。
資治通鑑』胡三省注によると、虞氏は帝舜の号(虞舜)から生まれた氏です。虞卿はこの時、趙の相です。
 
楼昌が秦に重使(身分が高い使者)を送って講和するように主張しました。
しかし虞卿がこう言いました「講和をするかどうかを制しているのは秦です(講和するかどうかの主導権を握っているのは秦です)。秦は王の軍を破りたいと思っているので、こちらが講和を求めても聴くはずがありません。使者に重宝を持たせて楚と魏に送るべきです。楚と魏が受け入れたら、秦は天下の合従を疑います。そこで講和を求めれば成功するはずです。」
ところが趙王は虞卿の意見を聞かず、鄭朱を秦に派遣しました。
秦は鄭朱を受け入れます。
趙王が虞卿に言いました「秦が鄭朱を受け入れた。」
虞卿はこう言いました「王は講和を成功することができず、しかも軍が破れます。なぜなら、戦勝(上党攻略)を祝賀するために天下から派遣された使者が秦に集まっています。鄭朱は我が国の貴人なので、秦王と応侯(范睢)は必ず鄭朱を重んじて天下(から集まった者)に示します。天下は王(趙王)が秦と講和したと判断し、王を援けようとはしなくなります。天下が王を援けなくなったと秦が知ったら、講和が成功するはずがありません。」
秦は鄭朱が講和を求めに来たことを宣揚するだけで、趙との講和の話は進めませんでした。
 
趙軍は秦軍に連敗しました。廉頗は営塁を固めて出撃せず、秦軍の疲労を待ちます。
趙王は趙軍の損失が増えたため廉頗が臆病になっていると思い、怒って頻繁に譴責しました。
秦の范睢も趙に人を送り、千金を使って反間(離間)の計を施しました。趙国内にこういう噂が流れます「秦が畏れているのは馬服君(趙奢)の子趙括が将になることだ。廉頗と交代したらすぐに降伏するだろう。」
趙王は噂を信じて趙括を将に任命し、廉頗と交代させました。
 
藺相如が趙王に言いました「王は名声だけを信じて括(趙括)を用いようとしていますが、琴の柱を膠で固定して弾くようなものです(「膠柱鼓瑟」。琴柱は音色を調整します。それを固定したら音色も調整できなくなります。臨機応変な対応ができないことの喩えです)。括はただ父が残した書を読めるだけで、機に応じて動くことができません。」
趙王は諫言を聞き入れませんでした。
 
趙括は幼い頃から兵法を学び、天下に並ぶ者がいないと自負していました。
以前、父の趙奢と兵事について語ったところ、趙奢は趙括に敵いませんでした。しかし趙奢は趙括を褒めようとしません。趙括の母が理由を問うと、趙奢はこう言いました「兵(戦)とは命をかけて行うものである(兵,死地也)。それなのに括は兵を簡単に語りすぎている。趙国が括を将にしなければいいが、もし将にすることがあったら、趙軍を崩壊させるのは括だろう。」
今回、趙括が廉頗の代わりに兵を率いることになったため、母が上書して反対しました。
趙王が理由を問うと、母はこう言いました「妾(私)が彼の父(趙奢)に仕えていた時、父は将を勤めていましたが、自ら食事を準備して招待した者は十数人おり、友として交わった者も百人を数えました。王や宗室によって与えられた賞賜は全て軍吏や士大夫に与え、命を受けた日には家事を問いませんでした(君命を第一にしました)。しかし今、括は将になるとすぐに東を向いて高位に座り、軍吏は畏れて仰ぎ見ることもできません。王に下賜された金帛は家に隠し、日々、利のある田宅を探して買いあさっています。王は父に匹敵すると思っていますが、父と子では心が異なります。王は彼を派遣するべきではありません。」
しかし趙王はこう言いました「母はこの事に関わるな。わしは既に決定したのだ。」
母が言いました「もしも任を全うできなくても、妾に罪を及ばさないことを請います。」
敗軍の将は罪が家族に及ぶこともあったため、母はこう言いました。趙王は同意しました。
 
秦王は趙括が将になったと聞き、秘かに武安君白起を上将軍に任命しました。王齕が裨将(副将)になります。
軍中に「武安君が将になったことを漏らした者は斬る」という命令が出されました。
 
趙括は軍営に入ると全ての軍令を改め、軍吏を置き替えました。廉頗が率いていた時の趙軍が一変します。
準備が整うと趙括は積極的に兵を出して秦軍を攻撃しました。
白起は破れたふりをして撤退します。但し道中に二隊の奇兵が伏せられています。
趙括は勝ちに乗じて秦の陣営に向かいましたが、白起が営塁を固く守っているため、攻め入ることができません。
その間に奇兵二万五千が趙軍の後方を攻めて退路を断ち、同時に五千騎が趙の営塁に通じる間道を塞ぎました。
趙軍は二分され、糧道が絶たれてしまいました。
そこで白起が軽兵を出して趙軍を攻めました。趙軍は破れて営にこもり、塁壁を堅くして援軍を待ちます。
秦王は白起が趙の糧道を絶ったと知り、自ら河内で十五歳以上の民を総動員して長平に向かいました。趙の援軍と糧食を阻止するためです。
 
斉と楚が趙を援けようとしました。
趙は食糧が不足していたため、斉に粟(食糧)を求めます。しかし斉王は食糧の提供を拒否しました。
周子(『史記田敬仲完世家』の『索隠』によると恐らく斉の謀臣)が斉王に言いました「趙は斉楚にとって扞蔽(壁)であり、歯に脣があるようなものです。唇がなくなったら歯が寒くなります(脣亡則歯寒)。今日、趙が亡んだら、明日は禍が斉楚に及びます。趙を援けるのは漏甕(水が漏れている甕)で焦げた釜の火を消すようなもので、一刻の猶予もありません。趙を救うのは高義なことであり、秦師を退ければ名声を挙げることができます。義によって滅亡に瀕した国を救い、威によって強秦を退けるのです。このような事に力を尽くさず、粟を惜しむことを国の計とするのは誤りです。」
斉王はやはり拒否しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。『史記田敬仲完世家』にもこの時の事が書かれています。以下、『田敬仲完世家』からです。
斉王建が即位して六年目(斉襄王が死んだ年が一年目です)、秦が趙を攻撃し、斉と楚が趙を救おうとしました。
秦は「斉と楚が趙を援けようとしているが、彼等が親しかったら兵を退こう。親しくないようなら攻撃しよう」と決めました。
趙は食糧がなくなったため、斉に粟を請いました。しかし斉は拒否します。
周子が斉王を諫めて言いました「趙に同意して(斉と趙が親しい姿を見せて)秦兵を退かせるべきです。同意しなければ秦兵は退かず、秦の計が中って斉楚の計が失敗することになります(秦が成功して斉楚が失敗します)。そもそも趙は斉楚にとって扞蔽(壁)であり、歯に脣があるようなものです。脣が亡んだら歯が寒くなります(以下、上述の『資治通鑑』と同じ内容なので省略します)。」
斉王は諫言を聞かず、食糧を送りませんでした。
その結果、秦は長平で四十余万の趙軍を大破し、趙都邯鄲を包囲しました(後述)
 
資治通鑑』に戻ります。
九月、趙軍の食糧が絶たれて四十六日が経ちました。趙軍が混乱に陥ります。
趙括は秦の陣営を急攻することにし、全軍を四隊に分けて順番に攻撃を繰り返させました。しかし五回目の攻撃を行っても秦軍を突破できません。
趙括は自ら鋭卒を率いて戦いましたが、秦兵が射た矢に中って戦死します。
趙軍は大敗し、四十万の兵が投降しました。
すると白起は「秦が既に上党を取ったのに、上党の民は秦に帰順することを願わず趙に帰順した。趙の士卒は反覆して一定ではない。全て殺さなければ乱の原因となるだろう」と言い、奸計を用いて四十万人を坑殺(生き埋め)しました。年が若い二百四十人だけが趙に還されます。わざと帰らせたのは秦の脅威を趙に教えるためです。
秦は廉頗と対峙していた時から趙括を大破するまでの間に前後して四十五万人を殺しました。趙国が震撼します。
 
四十万の坑殺に関しては古くから疑問視する意見が多く出ており、『資治通鑑』胡三省注は「兵が大敗したわけでもないのに、四十万人が手をこまねいて死を受け入れるはずがない」と書いています。
解放軍出版社の『中国歴代戦争年表』も「この戦役は前後三年にわたり、趙軍は四十五万人の死者を出した。同時に秦軍にも大きな損失を与えた。戦国時代空前の大戦といえる」としたうえで、宋裕『白起坑趙卒四十万質疑』(『晋陽学刊』1983年第3期)、舒永梧『長平之戦 活埋趙卒四十万質疑』(『文史雑誌』1990年第3期)等から「四十万の坑殺は不可能」という見解を紹介しています(詳細は省きます)
 
尚、『史記趙世家』は長平の戦いを翌年(趙孝成王七年)の事としていますが、恐らく誤りです。

長平の位置図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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次回に続きます。