戦国時代104 東周赧王(四十二) 孔斌 前259年(2)

今回は東周赧王五十六年の続きです。
 
[] 秦が趙を攻撃した時、魏王が諸大夫の意見を求めました。諸大夫は秦による趙攻撃は魏に利があると言います。
孔斌が諸大夫に「それはなぜだ?」と問いました。
諸大夫が言いました「秦が趙に勝ったら我々は秦に服せばいいでしょう。もし秦が趙に勝てなかったら秦の疲労に乗じて撃つことができます。」
孔斌が言いました「それは違う。秦は孝公以来、戦って屈したことがない。しかも今は良将(白起)がいる。疲労に乗じることなどできない。」
大夫が言いました「秦が趙に勝ったとしても、我が国に損はないでしょう。隣国の羞は我が国の福です。」
孔斌が言いました「秦は貪暴の国なので、趙に勝てば他国に地を求める。その時には、魏が秦師を受けることになるだろう。先人がこういう話を残した『燕雀が家の屋根に巣を作り、親鳥が子鳥に餌を食べさせている。その様子は仲睦まじく楽しそうで、鳥たちは安全だと思っている。ところが竈の煙突から炎が上がった。棟宇(家。ここでは燕雀の巣)が焼かれようとしているのに燕雀は様子を変えない。禍が迫っていることに気づいていないからだ。』今、子(汝等)は趙が破れたら禍が訪れるということに気づいていない。子は人でありながら燕雀と同じなのか。」
 
孔斌は字を子順といい、孔子の六世孫にあたります。『資治通鑑』胡三省注によると、孔子は伯魚を生み、伯魚は子思を生み、子思は子上を生み、子上は子家を生み、子家は子京を生み、子京は子高を生み、子高が子順を生みました。
かつて魏王が孔斌の賢才を聞き、使者に黄金や束帛を持たせて相に任命すると伝えました。しかし孔斌は使者にこう言いました「王が私の道(意見)を実際に用いることができるのなら、私の道は世を治めることができるので、蔬(野菜)を食べて水を飲むだけの生活を送ったとしても願うところです。しかしただ私の身に服を着せて重禄を与えるだけなら、私は一夫(庶民)と変わりがありません。魏王が一夫を不足しているということはないでしょう。」
孔斌は虚名を嫌って出仕を拒否しましたが、使者が頑なに請うため、ついに魏に行きました。
魏王は郊外で迎え入れて相に任命します。
 
孔斌は魏王の嬖寵の官(寵臣)を廃して賢才を登用し、功績がない者の禄を廃して功績がある者に与えました。その結果、職や秩を失った者達が孔斌を怨んで讒言を始めます。
文咨(文が姓。『資治通鑑』胡三省注は越に大夫文種がいたと解説しています)が孔斌にこのことを伝えると、孔斌はこう言いました「昔から民とは始めを共に考えることはできないものだ(民と新しい政策を検討することはできない。原文「民之不可与慮始久矣」)。古の世で政治を善くした者でも始めに誹謗を受けなかった者はいない。子産は鄭の相となり、三年後にやっと誹謗がなくなった。私の先君孔子も魯の相になったが三月経ってやっと誹謗が止んだ。今、私は日々政治を新しくしている。私は賢人に及ばないが、誹謗があるのは当然だ。」
文咨が問いました「先君が受けた誹謗とはどのようなものですか?」
孔斌が言いました「先君が魯の相になった時、人々はこう歌った『麛裘(鹿の皮衣)を着て身分が高い者は、捕まっても罪を問われることがない。身分が高くて麛裘を着ている者は、捕まっても過ちを咎められることがない(麛裘而芾,投之無戻。芾而麛裘,投之無郵)。』しかし三カ月が経って政治が改められると、民はこう歌った『裘衣(皮衣)を着て章甫(冠の一種。殷冠)を被っている者孔子は、我々の願いをかなえてくれる。章甫を被って裘衣を着ている者は、我々を恵んで私欲がない(裘衣章甫,実獲我所。章甫裘衣,恵我無私)。』」
文咨が喜んで言いました「先生が聖賢と変わらないことが今はじめてわかりました(孔斌は誹謗を受けていますが、聖人と変わりません)。」
 
孔斌が魏で相を勤めて九カ月が経ちました。しかし大計を述べても用いられないため、嘆息して言いました「進言しても用いられないのは、私の言がふさわしくないからだ。主にとって言がふさわしくないのに、人の官となり、人の禄を受けるのは、尸利素餐(主にとって利益がなく、ただで食事を採ること)というものだ。私の罪は深い。」
孔斌は病と称して致仕(引退)しました。
ある人が孔斌に言いました「王が子(あなた)を用いませんでしたが、子は去るのですか?」
孔斌が答えました「どこに行くというのだ。山東の国はやがて秦に併呑される。しかし秦は不義の国だ。義によって秦に入ることはできない。」
孔斌は家で寝て過ごしました。
 
新垣固が孔斌に会いに来ました。『資治通鑑』胡三省注によると、新垣が氏で、周畢公の子孫が梁に住み、新垣氏を名乗りました。梁(魏)には新垣衍が、漢代には新垣平がいます。
新垣固が孔斌に言いました「賢者がいる場所は教化が行き届いて政治が修まるといいます。今、子(あなた)は魏の相になりましたが、異政(政治が改まること)を聞くことなく自ら退きました。志を得ることができなかったのですか?なぜこのように早々と去るのですか?」
孔斌が言いました「異政がないから自ら退くのです。死病(不治の病)にかかったら良医も手が出せません。今、秦には天下を吞食しようという野心があるので、義をもって(魏に)仕えても安全は得られません。滅亡から救う時間もないのですから、教化を興す余裕もありません。昔、伊摯(伊尹)は夏に仕え、呂望は商にいましたが、二国が治まることはありませんでした。これは伊呂が(夏・商の変革を)欲しなかったからではありません。時勢がそうさせなかったのです。今の山東諸国は疲弊して振るわず、三晋は地を割いて安寧を求め、二周も屈して秦に入っています。燕楚も既に秦に屈服しています。二十年を超えることなく、天下は全て秦のものとなるでしょう。」
実際には三十八年後に秦始皇帝が天下を統一します。
 
[] 秦昭王は応侯范睢のために仇を討ちたいと思っていました。『史記范睢列伝(第七十九)』と『資治通鑑』からです。
秦王は魏斉が平原君趙勝の家に隠れたと知り(東周赧王四十九年266年参照)、平原君に書を送りました「寡人は君の高義を聞き、君と布衣の友(国君の地位とは関係ない庶民のような友)の交わりを結びたいと思っている。幸いにも君が寡人を訪ねてくれるなら、寡人は君と十日間の酒宴を開くつもりだ。」
平原君は秦を恐れていましたが、今回の書信を得て安心し、秦に入って昭王に謁見することにしました。
 
秦王は平原君と数日にわたって酒を飲みました。
昭王が平原君に言いました「昔、周文王は呂尚を得て太公とし、斉桓公は管夷吾を得て仲父とした。今、范君も寡人の叔父である。その范君の仇が君の家にいる。人を使ってその頭を取ってきてほしい。それができないようなら、君を関から出すことはない。」
平原君が言いました「貴い位に登っても卑賎だった頃の友と交わるのは、卑賎だった頃を忘れないためです。富を得てからも貧困だった頃の友と交わるのは、貧困だった頃を忘れないためです。魏斉は勝の友なので、たとえ家にいたとしても渡せません。臣の家にいないのですから、なおさら渡すことはできません。」
秦王は趙王に書を送ってこう伝えました「王の弟(平原君)は秦におり、范君の仇魏斉は平原君の家にいる。王は速やかに使者に命じてその頭を送ってこい。もし拒否したら兵を挙げて趙を討つ。また、王の弟が関から出ることもない。」
趙孝成王は士卒を送って平原君の家を包囲しました
 
危急を知った魏斉は夜の間に逃走し、趙相虞卿に会いました。
虞卿は趙王を説得できないと判断し、趙相の印綬を返上して魏斉と共に逃走しました。二人は間道を通って奔りましたが、二人を受け入れる諸侯はいないと思い、魏都大梁に帰りました。信陵君を通じて楚に行こうとします。
しかし信陵君は秦を恐れて会おうとせず、「虞卿とはどういう人物だ」と周りの者に問いました。
そばにいた侯嬴が言いました「他人はなかなか自分を理解してくれないものですが、自分が他人を理解するのも難しいものです。虞卿という人物は、もともと貧困で躡屩檐簦(草鞋を履いて笠をかぶること)という姿でしたが、一度趙王に謁見したら白璧一双と黄金百鎰を賜り、二度謁見して上卿となり、三度謁見して相の印を与えられ、万戸侯に封じられました。天下は虞卿が何者かを争って知ろうとしています。
今、魏斉が困窮して虞卿に助けを求めると、虞卿は尊貴な爵位も俸禄も重視せず、相印を解き、万戸侯を棄てて、魏斉と共に逃走しました。困窮した士は公子(信陵君)を頼っています。ところが公子は『虞卿とはどのような人物だ』と問いました。他人はなかなか自分を理解してくれないものですが、自分が他人を理解するのも難しいものです。」
信陵君は恥じて郊外まで迎えに行きました。
しかし魏斉は信陵君が会うのを渋っていると知った時、憤慨して自剄しました。
それを知った趙王は魏斉の首を秦に送ります。秦はやっと平原君を釈放しました。
 
[] 九月(『資治通鑑』が九月としています。『史記秦本紀』は「其十月」と書いていますが、十月は翌年になってしまうので、恐らく誤りです)、秦の五大夫王陵が兵を率いて趙を攻撃しました。
武安君白起は病のため参加できませんでした。
 
 
 
次回に続きます。