戦国時代105 東周赧王(四十三) 毛遂自薦 前258年(1)

今回は東周赧王五十七年です。二回に分けます。
 
赧王五十七年
258年 癸卯
 
[] 正月、秦の王陵が趙都邯鄲を攻撃しました。
しかし王陵は邯鄲攻撃にてこずり、大きな勝利を得ることができませんでした。
秦は兵を増やして王陵を援けましたが、王陵は五校(四千人)を失います。
資治通鑑』胡三省注が軍制の解説をしています。立軍の法では、一人を「獨」、二人を「比」、三人を「参」といい、「比参(五人)」を「伍」といいます。五人(伍)が「列」となり、列には頭がいます。二列を「火」といい、十人(二列)に「火子」という長を立てます。五火(五十人)を隊といい、頭がいます。二隊(百人)を「官」といい、長を立てます。二官(二百人)を「曲」といい、「候」を立てます。二曲(四百人)を部といい、「司馬」を立てます。二部(八百人)を「校」といい、「尉」を立てます。二校(千六百人)を裨将といい、将軍を立てます。二裨将は三千二百人で、将軍と副将軍がいます。
 
この頃、武安君白起の病が善くなったので、秦王は白起を派遣しようとしました。
しかし白起はこう言って断りました「邯鄲を攻略するのは容易ではありません。しかも諸侯の援軍は一日で到着します。諸侯は皆、秦を怨んで久しく、秦は長平で勝ったとはいえ、士卒の死者が半数を越えました。国内が空虚なのに遠く河山に阻まれた人の国都を争っていますが、もし趙が内を固めて諸侯が外から攻めてきたら、秦軍が破れるのは必至です。」
秦王は自分の命では白起を動かせないと判断し、応侯范睢を送って白起を説得させました。
しかし白起は病を理由に辞退し続けました(白起は邯鄲攻撃を范睢に妨害されたため、范睢を怨んでいます。前年参照)
秦王は王齕を送って王陵と交代させました。
 
尚、『六国年表』は翌年に「秦の王齕と鄭安平が邯鄲を包囲した」と書いています。
また、『史記趙世家』は趙孝成王七年に「趙が秦の指示を聞かなかったため(前年、六城の割譲をしなかったことを指します)、秦が邯鄲を包囲した」としていますが、孝成王八年(本年)または九年の誤りです。
 
[] 『史記趙世家』によると、武垣令傅豹と王容、蘇射が燕の民衆を率いて燕の地に去りました。武垣は燕との国境にあったようです。
この事件を『趙世家』は趙孝成王七年の事としていますが、秦が趙都を包囲した後に書いているので、恐らく孝成王八年(本年)か九年の誤りです。
 
[] 趙王が平原君趙勝を楚に送って援軍を求めることにしました。
平原君は門下の食客で文武に長けた者二十人を選んで従わせます。しかし十九人まで集まったのに最後の一人が決められません。
すると毛遂という者が平原君に自分を売り込みました(毛遂自薦)
資治通鑑』胡三省注によると、毛氏は西周武王の同母弟毛公の子孫です。
 
平原君が毛遂に言いました「賢士が世にいるのは、錐が囊(袋)の中に入っているようなものであり、その先端はすぐに姿を現すものだ。しかし先生は勝()の門下に三年もいながら、左右の者が称賛するのを聞いたことがない。それは先生に能力がないからではないか。先生に同行させるわけにはいかない。先生は残れ。」
毛遂はこう言いました「臣は今日、囊の中に入れられることを願います。遂(私)が速く囊に入れられていたら、先端だけでなく末端まで姿を現していたでしょう。」
平原君は毛遂を同行させることにしました。先に選ばれた十九人は互いに目を合わせて毛遂を嘲笑しました。
 
平原君が楚に到着し、楚王に合従の利害を説きました。日が出る頃から語り始めましたが、日中(正午)になっても決着がつきません。
すると毛遂が剣に手を置いて階段を上り、平原君に言いました「合従の利害は二言だけで(利か害かをはっきりするだけで)決することができます。日の出から語り始めたのに日中になっても決しないのはなぜですか?」
楚王が叱咤して言いました「下がれ!わしが汝の主と話をしているのだ!汝は何者だ!」
毛遂は剣に手を置いたまま前に進み、楚王にこう言いました「王が遂(私)を叱責するのは、楚国の衆(多勢)を頼りにしているからです。しかし今は十歩の中に王がいるので、楚国の衆に頼ることはできません。王の命は遂の手にかかっているのです。我が君の前で叱責するのはなぜですか!
湯は七十里の地しかなかったのに天下の王となり、文王は百里の壤(土地)しかなかったのに諸侯を臣にしました。彼等は士卒の衆多に頼っていたのではなく、形勢に乗じて威を振るうことができたのです。今、楚の地方は五千里に及び、持戟(兵)も百万を数えます。これは霸王の資(資本)です。天下には強大な楚に対抗できる国はありません。ところが、白起は小豎子に過ぎず、数万の衆しか率いていないのに、師を興して楚と戦ったら一戦して鄢・郢を占領し、再戦して夷陵を焼き、三戦して王の先人を辱めました(宗廟を破壊しました)。これは百世の怨であり、趙も(楚に代わって)羞だと思っています。それなのに王は何とも思っていません。合従は楚のためであり、趙のためではありません。我が君の前で王は何を叱責しているのですか。」
楚王は「その通りだ(唯唯)社稷を奉じて先生の言に従おう」と言いました。
毛遂が問いました「合従は決定ですか?」
楚王が答えました「決定だ。」
毛遂が楚王の近臣に言いました「鶏、狗(犬)、馬の血を取って来なさい。」
資治通鑑』胡三省注によると、盟を結ぶ時の犠牲は、天子は牛馬、諸侯は犬(豚)、大夫以下は鶏と決められていました。楚王(天子)、平原君(諸侯)、毛遂(大夫以下)の結盟なので、三種類が用意されました。
毛遂は血が盛られた銅盤を持つと、跪いて楚王に言いました「王は歃血(犠牲の血をすするか口の周りに塗る結盟の儀式)して合従を定めるべきです。次に我が君が歃血し、遂が続きます。」
こうして殿上で合従の命が結ばれました。
毛遂は左手で盤をもち、平原君が連れてきた十九人を右手で招いて言いました「公等(汝等)も堂下で共に歃血せよ。公等はついて来ただけだ。まさに『人に頼って事を成す(因人成事)』というものだ。」
 
楚と合従の約束をした平原君は趙に帰国してから「勝(私)は二度と天下の士を見る目があるとは言えなくなった」と言い、毛遂を上客にしました。
 
この故事から「毛遂自薦」という成語ができました。大きな任務に対して自ら名乗り出ることをいいます。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が霊丘の地を楚の相春申君に封じました。春申君に援軍を求めるためだと思われます。
『趙世家』は趙孝成王七年の事としていますが、恐らく孝成王八年(本年)か九年の誤りです。
 
[] 楚王は春申君黄歇に兵を率いて趙を援けさせました。
魏王も将軍晋鄙に兵十万を率いて趙を援けさせます。『資治通鑑』胡三省注によると、晋は国名から生まれた氏です。
 
これに対して、秦王が使者を送って魏王にこう伝えました「わしは趙を攻めており、旦暮(朝晩)には降すことができる。もし諸侯で趙を援ける者がいたら、わしは趙を攻略してから兵を移して真っ先に攻撃する。」
魏王は恐れて晋鄙の進軍を止めさせ、鄴に陣を構えるように命じました。名義上は趙を救援すると言っていますが、実際は成り行きを見守ります。
また、将軍新垣衍を間道から邯鄲に派遣し、平原君を通して趙王に謁見させました。新垣衍は魏と趙が共に秦を尊んで帝号を贈ることで秦の兵を退かせるように勧めます。
この時、斉人の魯仲連が邯鄲にいました。新垣衍の動きを知った魯仲連はすぐに会いに行ってこう言いました「あの秦は礼義を棄てており、首を献上することを功績としている国です(秦では斬首の数が多ければ戦功も大きくなりました。殺人を奨励していることになります)。もしも秦が公然と天下の帝になるというのなら、連()は東海に飛び込んで死ぬまでです。秦の民になるつもりはありません。それに、梁(魏)はまだ秦が帝を称してから害されることに気づいていません。私が秦王を使って梁王(魏王)を烹醢(烹は煮殺すこと。醢は肉醤にすること)にしましょう(秦王が魏王を殺すことは間違いありません。私にはそれが分かります)。」
新垣衍が不快な顔をして問いました「先生はどうして秦王を使って梁王を烹醢にできるのですか。」
魯仲連が言いました「それは明らかなことです。今から説明しましょう。昔、九侯、鄂侯、文王(西周文王)という者がいました。紂商王朝最後の王)の三公です。九侯には容姿が優れた娘がいたので、紂に献上しました。しかし紂はその娘をきらい、九侯を殺して醢(肉醬)にしました。鄂侯は九侯のために紂を強く諫め、冤罪を訴えました。すると紂は鄂侯を脯(干肉)にしてしまいました。それを聞いた文王も長らく嘆息したため、紂は文王を牖里の庫(倉庫)に百日も幽閉して死を望みました。今、秦は万乗の国であり、梁もまた万乗の国です。共に万乗の国であり、それぞれが王の名を称しています。なぜ一戦の勝利を見ただけで秦に従って帝号を贈ろうとするのですか。これでは、最後は脯醢の地(別の者に生殺の権限を握られた状態)に陥ることになります。しかも、秦を制する者がなくなり、その秦が帝を称したら、天子の礼を用いて天下に号令し、諸侯の大臣を交代させ、秦が不肖とする者の官を奪って秦が賢とする者に与え、秦が憎む者から奪って秦が愛する者に与えるようになるでしょう。また、秦の子女や讒妾(讒言を好む女)を諸侯に送って妃姫とさせ、梁の宮に住ませるようになるでしょう。そうなったら、梁王は晏然(安泰安寧)でいられますか?将軍も寵を得ることができなくなります。」
新垣衍は立ち上がって魯仲連に再拝すると、「私は今、先生が天下の士であることを知りました。私は帰ります。二度と帝号を秦に贈るという話は口にしません」と言って去りました。
 
史記魯仲連列伝(巻八十三)』には、新垣衍が魯仲連の諫言に納得したため、それを知った秦が軍を五十里撤退させたとあります。これに対して『資治通鑑』胡三省注は「魯仲連の言は秦が帝を称すことの利害を説いただけなので、新垣衍が後悔して去ればそれで充分だった。秦が五十里撤退する必要はない。これは游談の者が誇大に伝えたのである」と書いています。
 
[] 燕武成王が在位十四年で死に、子の孝王が立ちました。
 
 
 
次回に続きます。

戦国時代106 東周赧王(四十四) 侯嬴と朱亥 前258年(2)