戦国時代106 東周赧王(四十四) 侯嬴と朱亥 前258年(2)

今回は東周赧王五十七年の続きです。
 
[] 魏の公子無忌は仁の人で、士に対してもへりくだっていたため、三千人の食客が集まりました。以下、『史記信陵君列伝(魏公子列伝巻七十七)』と『資治通鑑』からです。
 
魏に侯嬴という隠士がいました。
資治通鑑』胡三省注によると、侯氏の先祖は豳岐地方の出身で、西周文王の後代が鄭に封じられたことから始まります。鄭の共仲(鄭の公族)が侯という氏を与えられ、子孫の侯宣多が鄭国で功を立てました。侯姓は侯宣多の子孫にあたります。
 
侯嬴は七十歳になりますが、家が貧しいため、魏都大梁の夷門(北門)で監者(門衛)を勤めていました。
魏無忌は侯嬴が賢人だと聞いて会いに行き、厚い礼物を贈りました。しかし侯嬴は拒否してこう言いました「臣は身を修めて行いを潔くし、数十年が経ちました。監門を勤めて困窮しているからといって公子の財を受け取ることはできません。」
魏無忌は家に戻ってから酒宴を開きました。賓客が集まって席に就きます。すると魏無忌は車騎を準備させ、左の席を空けて、自ら夷門の侯生を迎えに行きました。左の席を空けたのは左が上位を表すからです。侯生を尊重する意思を示します。
侯生は古くて粗末な衣冠を着たまま直接馬車の上座に座り、敢えて謙遜する姿を見せずに魏無忌の様子を窺いました。魏無忌は自ら馬車を御してますます恭しい態度を取ります。
道中で侯生が言いました「臣の客(友人)が市で屠殺業を行っています。車騎を遠回りさせてください。」
魏無忌は車を御して市に入りました。
侯生は車から下りて友人の朱亥に会いました。『資治通鑑』胡三省注によると、朱氏は高陽の後代で、周が邾国に封じました。後に楚が邾を滅ぼすと、子孫は「邑(阝)」を去って朱を氏にしました。
 
侯嬴は魏無忌を横目で見ながら(正視しないというのは不遜な態度を表します。原文「睥睨」)わざと久しく朱亥と立ち話をしました。魏無忌の態度を観察します。
この間、魏の将相宗室といった賓客が既に魏無忌の家に集まっており、堂を埋めて公子が酒宴を始めるのを待っていました。
市では人々が集まり、轡を持って侯嬴を待つ魏無忌を眺めています。魏無忌の従騎(従者)が侯生の陰口をたたき始めましたが、魏無忌はますます和やかな様子を見せました。
 
暫くして侯嬴は朱亥と別れを告げ、車に乗って魏無忌の家に行きました。
魏無忌は侯嬴を酒席の上座に座らせ、賓客に侯嬴を紹介して褒めたたえます。賓客は皆、みすぼらしい老人が上座に座るのを見て驚きました。
宴が始まって酒がまわると、魏無忌が立ち上がって侯生の前に行き、寿を祝いました。
侯生が魏無忌に言いました「今日、嬴(私)は公子を敢えて困らせました。それだけで充分です(祝寿は必要ありません)。嬴は夷門で関を守る者に過ぎません。しかし公子は自ら車騎を御し、衆人広坐(広坐は人が集まる場所)の中で嬴を迎えました。また、本来遠回りをするべきではありませんでしたが、公子は敢えて遠回りをしてくれました。嬴は公子の名声を成就させたいと思っていたので、わざと久しく立ち話をし、公子の車騎を市中で待たせました。客(友人)に会うという理由で公子の様子を観察しましたが、公子はますます恭敬になりました。市の人々は皆、嬴を小人と思い、公子は長者で士に対してへりくだることができると判断したでしょう。」
酒宴が終わると、侯生は魏無忌の上客になりました。
 
侯生が魏無忌に言いました「臣が会いに行った屠者朱亥は賢者です。しかし世が彼の能力を知らないため、屠夫の中に隠れています。」
魏無忌は何度も朱亥を訪ねて仕えるように誘いましたが、朱亥は辞退しました。魏無忌は朱亥を常人ではないと思うようになりました。
 
秦が趙都邯鄲を包囲しました。
趙の平原君趙勝の夫人は公子魏無忌の姉だったため、平原君は頻繁に使者を魏に送って魏無忌にこう伝えました「勝(私)が公子と婚姻を結んだのは、公子が高義によって困窮した人を援けることができると思ったからです。今、邯鄲が旦暮(朝晩)にも秦に降ろうとしているのに、魏の援軍はまだ来ません。これでどうして公子が困窮した人を救えると言えるのでしょうか。公子が勝を軽視し、勝を捨てて秦に降伏させるのは構いません。しかし公子の姉を憐れだとは思わないのでしょうか。」
 
心配になった魏無忌は何回も魏王に趙救援を進言しました。魏無忌の賓客弁士も進言を繰り返します。しかし魏王は秦を恐れて晋鄙の兵を動かそうとしません。魏無忌は魏王を動かせないと知りましたが、自分だけ生き延びて趙を滅ぼすわけにもいきません。
そこで魏無忌は賓客に車騎百余乗を準備させました。食客を率いて秦軍に立ち向かい、趙と共に死ぬ決意をします。
 
魏無忌は夷門を通って侯生(侯嬴)に会い、秦軍と戦って死ぬつもりだということを伝えました。
ところが、魏無忌が侯生に別れを告げて出発しようとしても、侯生は「公子は努力してください。老臣が従うことはできません」と言うだけでした。
魏無忌は城を出て数里進みましたが、侯嬴の態度を不満に思い、こう考えました「私が侯生を厚遇していることを天下で知らない者はいない。しかし今、私が死を覚悟したというのに、侯生は一言半辞も送ってくれなかった。これは私に問題があるのではないか。」
魏無忌は引き返して再び侯生に会いに行きます。
 
侯生が笑って言いました「臣は公子が戻って来ると知っていました。公子が士を愛していることは天下に知られています。しかし今、難に遭遇した公子は策も持たずに秦軍に立ち向かおうとしています。これは肉を餒虎(飢えた虎)に向かって投げるようなものです。何の功を立てられるというのでしょうか。また、我々客を用いてきたことに何の意味があるのでしょうか。公子は臣を厚く遇してきました。公子が去るのに臣が送らなかったので、公子は恨んで必ず引き返して来ると思っていました。」
魏無忌が再拝して計を問うと、侯嬴は人払いさせてからこう言いました「晋鄙の兵符はいつも王の臥内(寝室)にあるそうです。如姫は最も寵幸を受けているので、自由に臥室に入って符を持ち出すことができます。以前、公子は如姫の父の仇を討ったことがあると聞きました。如姫は公子のためになるのなら命を落としても文句を言いません。今までは恩に報いる機会がなかったのです。公子が口を開けば如姫は必ず同意します。虎符(兵符)を得たら晋鄙の兵を奪い、北は趙を援け、西は秦を退けられます。これこそ五伯(覇)の功というものです。」
 
以前、如姫の父が人に殺されました。如姫は仇討ちを誓います。魏王以下、群臣も仇討ちの機会を探しました。しかし三年が経っても実行できません。そこで如姫は魏無忌に泣いて訴えました。魏無忌は門客を使って仇を討ち、その首を如姫に献上しました。この事があってから、如姫は魏無忌の恩に報いたいと思っていました。
 
魏無忌は侯嬴の言に従って如姫に請い、如姫は兵符を盗んで魏無忌に渡しました。
 
魏無忌が改めて出発しようとすると、侯生が言いました「将が外にいる時は、君命でも聞かないことがあります(将在外,君令有所不受)。公子が兵符を合わせても、晋鄙が兵を譲らず、逆にもし王の指示を求めたら、事が危うくなります。臣の客朱亥は力士なので同行させるべきです。晋鄙が指示に従うのならそれが最善ですが、もし従わないようなら朱亥を使って撃つことができます。」
魏無忌が涙を流したため、侯生が問いました「公子は死を畏れるのですか?なぜ泣くのですか?」
魏無忌が言いました「晋鄙は経験の多い宿将です。恐らく言うことを聞かないので、殺すことになるでしょう。だから泣いたのです。死を畏れることはありません。」
 
魏無忌は朱亥に会って同行を請いました。
朱亥が笑って言いました「臣は市井で刀を振るって屠殺を行う者に過ぎないのに、公子は何回も自ら会いに来てくれました。臣がそれに応えなかったのは、小礼(小さな礼節。恩返し)では何の役にも立たないと思っていたからです。公子に急難がある今こそ、臣が命をかける時です。」
朱亥は魏無忌に従いました。
 
魏無忌が侯生に会いに行って別れを告げました。
侯生が言いました「本来は臣も従うべきですが、老齢のためできません。公子が行軍する日数を数え、晋鄙の軍営に到着する日に北を向いて自剄し、公子を送り出す代わりとさせてください。」
 
魏無忌一行が出発し、鄴に到着しました。魏王の命令を偽って晋鄙に兵権を譲らせます。しかし晋鄙は兵符を合わせても信用せず、手をかざして(遠くを眺めて。原文「挙手視」)魏無忌に言いました「私は十万の衆を擁して境上に駐軍しています。国の重任だというのに、単車だけで来て交代するというのはどういうことですか?」
晋鄙が魏無忌の要求を拒否しようとしたため、朱亥が袖の中に隠していた四十斤の鉄椎を振り上げて晋鄙を撃殺しました。魏無忌が兵権を奪います。
 
魏無忌が軍中に命令しました「父子ともに軍中にいる者は父が帰れ。兄弟ともに軍中にいる者は兄が帰れ。獨子(一人っ子)で兄弟がいない者は父母を養うために帰れ。」
こうして八万の兵が選ばれ、趙に向かって進軍を開始しました。
 
この日、侯生が北を向いて自剄しました。
 
[] 秦の王齕は久しく趙都邯鄲を包囲していますが、攻略できません。その間に諸侯の援軍が到着します。
王齕は趙や諸侯の軍と数戦しましたが、全て失敗しました。
それを聞いた武安君白起が言いました「王は私の計(邯鄲を攻略するのは困難だという意見)を聞かなかったが、今の状況はどうだ。」
白起の言葉を知った秦王は怒って白起に出征を強要しましたが、白起は病が重くなったと称して頑なに拒否しました。
 
史記趙世家』は秦による邯鄲包囲を趙孝成王七年、楚と魏が趙を援けて秦が包囲を解いたのを孝成王八年の事としていますが、恐らく全て孝成王九年、もしくは孝成王八年と九年の誤りです。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の将軍張唐が魏を攻めました。
蔡尉(蔡が姓、尉が名)が守りを棄てて帰ったため、処刑されました。
 
『秦本紀』はこれを十月の事としていますが、十月は歳首なので翌年になってしまいます。「十月」が誤りなのか発生した年が誤りなのか(本年ではなく翌年の出来事なのか)はわかりません。
 
 
 
次回に続きます。