戦国時代107 東周赧王(四十五) 白起の死 前257年(1)

今回は東周赧王五十八年です。二回に分けます。
 
赧王五十八年
257年 甲辰
 
[] 十月(歳首)、秦が武安君白起を罷免し、爵位を奪って士伍に落とし、陰密に遷しました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の張唐が鄭を攻めて攻略しました。
張唐は前年に魏を攻めました。今回占領した鄭は魏の地名だと思われます。
 
[] 十二月、秦王が趙を攻めている王齕を援けるため、更に多くの兵を動員して汾城の傍に駐軍させました。
しかし白起は病と称して従軍しませんでした。
 
諸侯が王齕を攻撃し、王齕は敗戦を重ねました。
諸侯というのは主に魏と楚です。
魏は信陵君魏無忌が晋鄙から兵権を奪って邯鄲に駆けつけました(前年)
楚は『六国年表』『春申君列伝(巻七十八)』『資治通鑑』に春申君黄歇を派遣した事が書かれていますが(前年)、『楚世家』には本年に「楚が将軍景陽を送って趙を援けた」とあります。
 
王齕の使者が毎日、秦都咸陽に到着して援軍を求めました。
 
秦王は敗戦が重なっている状況を恥とし、人を送って白起に咸陽から出ていくように伝えました。
白起が咸陽西門を出て十里進み、杜郵に至った頃、秦王が応侯(范睢)や群臣に言いました「白起を遷した時、不満そうな様子で怨言があるようだった。」
秦王は使者を送って白起に剣を下賜しました。白起は自殺します。
秦人は白起を憐れみ、各地の郷邑が祭祀を行いました。
 
史記白起列伝(巻七十三)』によると、白起は自殺する前に剣を持ってこう言いました「わしは天に対して何の罪があってこのようなことになってしまったのだろう。」
しかし久しく経ってから「わしが死ぬのは当然だ。長平の戦いにおいて、趙の士卒で投降した者数十万を偽ってことごとく阬(生埋め)した。これだけでも死ぬのに充分だ」と言って自殺しました。
 
[] 魏の公子無忌が秦軍を邯鄲城下で大破しました。王齕は邯鄲の包囲を解いて敗走します。
秦の鄭安平が趙軍に包囲され、二万人を率いて降伏しました。
鄭安平はかつて范睢を隠して王稽に会せた人物です。それがきっかけで范睢は秦の相になり、鄭安平を推挙して官に就かせました。
今回、鄭安平が趙に降ったため、推挙した范睢も罪を負うことになりました。
 
以上は『資治通鑑』の記述を元にしました。『史記范雎列伝(巻七十九)』は鄭安平投降後の事をこう書いています。
范雎は槀の蓆に跪いて秦王に罪を請いました。秦の法では、人を推挙してからその者が不善を行ったら、推挙した者も同罪になります。よって范雎も三族を逮捕される罪を犯したことになります。
しかし秦昭王は范雎を傷つけることを恐れて国内にこう命じました「鄭安平の事について語る者がいたら、鄭安平と同罪とみなす。」
更に日々豊富な食物を下賜してますます厚遇しました。
 
尚、鄭安平は趙で武陽君に封じられました。『趙世家』に「趙孝成王十一年(秦昭襄王五十二年255年)、武陽君鄭安平が死ぬ」という記述があります。
 
こうして邯鄲の戦いが終わりました。
邯鄲の戦いは戦国四君のうち、趙の平原君、魏の信陵君、楚の春申君の三人が関係した戦いでした。
この戦いは諸国が合従して力を合わせればまだ秦に抵抗できるということを示しました。しかし実際にはこの戦いを最後に、諸国の秦に対する抵抗は小さくなっていきます。 
一方の秦も長平の戦いと邯鄲の戦いによる損失が大きかった上に、白起と昭襄王、范雎の不和という内部事情もあったため、天下を統一するにはまだ力が足りませんでした。
本格的に秦が天下統一に向かって動き出すのは、約二十年後に秦王政(後の始皇帝が親政を始めてからのことです。
 
[] 『史記秦本紀』によると、邯鄲攻撃に失敗した王齕は汾城まで撤退しました。
そこで二カ月余駐軍してから、晋(魏)軍を攻めて六千を斬首しました。また、晋楚両軍の兵二万が黄河に流されて死にました。
この部分の原文は「晋楚流死河二万人」です。『史記正義』は「この時、楚軍はいないので、『楚』は『走』の誤り」としています。その場合は、「晋軍が逃走し、黄河で二万人が流されて死んだ」という意味になります。
但し邯鄲の戦いでは楚も兵を出しているので、秦と魏の戦いにも楚が参戦していたかもしれません。
 
『秦本紀』に戻ります。
王齕は汾城を攻撃し、張唐に従って寧新中(または「曼新中」「新中」。魏の邑)を占領しました。
寧新中は安陽に改名されます。
秦軍が黄河に初めて橋を造りました。
 
[] 魏公子無忌は趙を救いましたが、兵符を盗んで晋鄙を殺したため、魏に帰ろうとせず、賓客と共に趙に留まりました。兵達は魏将に委ねて帰国させます。
 
趙王は平原君趙勝と相談して魏無忌に五城を封じることにしました。
趙王は道を清めてから、主人の礼を用いて魏無忌を迎え入れます。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記信陵君列伝(魏公子列伝巻七十七)』によると、趙王は平原君と一緒に郊外まで魏無忌を迎えに行き、平原君自ら韊矢(矢が入った袋)を背負って先導しました。
趙王は再拝して「古から今まで、全ての賢人の中で公子に及ぶ者はいません」と言って称賛しました。
 
資治通鑑』に戻ります。
魏無忌が殿上に登る時、趙王が西階(西側の階段)を登るように勧めました。西階は賓客の階段で、尊重を意味します。
しかし魏無忌は階段の前を横切って辞退し、「自分は罪を犯した身です。魏を裏切り、趙に対しても功はありません」と言って東階に向かいました。東の階段は主人が登る階段ですが、賓客が等級を落としたら主人の階段を登ることになっていました。
趙王が魏無忌と酒を飲みました。夜になりましたが、魏無忌があまりにも謙遜するため、五城を譲る事を口にできません。そこで趙王は鄗を魏無忌の湯沐邑にしました。湯沐邑というのは賦税の収入を自分のものにできる邑です。
後に魏も魏無忌の食邑だった信陵の地を魏無忌に渡しました。
 
魏無忌は趙に処士毛公と薛公という人物がいると聞きました。『史記魏公子列伝』によると魏無忌は魏にいた頃から二人の名声を知っていたようです。
資治通鑑』胡三省注に薛氏の解説があります。薛氏は黄帝の子孫で、任姓から生まれました。奚仲という者が薛に住み、夏(商)周の間に六十四代にわたって諸侯となり、後代が国名を氏にしました。
 
毛公は博徒の中に住み、薛公は漿家(酒屋)に住んでいました。それを知った魏無忌が二人を訪ねましたが、二人は会おうともしません。
そこで魏無忌は公の身分を棄ててこっそり会いに行き、私人として付き合い始めました。
すると平原君が魏無忌の行動を批難しました。二人が賎しい身分だったからです(『史記魏公子列伝』では、平原君は妻に魏無忌の批判をしています。平原君の妻は魏無忌の姉です)
平原君の批難を聞いた魏無忌は荷物をまとめてこう言いました「私は平原君の賢を聞いたから魏に背いて趙を救ったのだ。しかし平原君が人と交わる様子は、富貴を顕示して豪快にふるまっているだけだ。士を求める態度ではない。無忌は二人と交流できたが、彼等に必要ないと思われることを恐れている。ところが平原君は彼等との交わりを羞としている。」
平原君が冠を脱いで謝罪したため、魏無忌は趙に留まりました。
 
[] 趙の平原君が魯連(魯仲連)に土地を封じようとしました。新垣衍が秦に帝号を贈ろうとしたのを阻止したからです。しかし使者が三往復しても魯連は辞退しました。
そこで千金を贈って魯連の寿を祝いました。すると魯連は笑ってこう言いました「天下の士が貴ぶのは、人のために患を廃して難を除き、紛乱を解決したとしても何も取らないことです。もしも何かを取ったら、商賈(商人)の事になってしまいます。」
魯連は平原君に別れを告げて去り、二度と会うことがありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

戦国時代108 東周赧王(四十六) 呂不韋と華陽夫人 前257年(2)