戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年
『資治通鑑』胡三省注によると、秦は隴西の谷の名です。秦の祖先・非子が西周孝王のために汧水・渭水の周辺で馬を飼い、附庸に封じられて秦谷を邑としました。附庸というのは五爵(公・侯・伯・子・男)の下に位置する属国で、正式な諸侯ではありません。
昭襄王
昭襄王の名は稷といい、恵文王の庶子です。
昭襄王五十二年
前255年 丙午
[一] 秦の河東守・王稽が諸侯と通じているとして棄市されました。棄市というのは市で処刑されて死体が晒される刑です。
応侯・范睢の立場が微妙になりました。范睢は王稽によって秦王に推挙されて相になったからです。
かつて范睢を援けた鄭安平は趙に降り(東周赧王五十八年・前257年参照)、今回、王稽も秦の罪を得て処刑されました。范睢は不安な日々を送ります。
ある日、昭襄王が朝廷に臨んで嘆息しました。范睢が理由を聞くと、王はこう言いました「武安君(白起)は既に死に、鄭安平や王稽等も裏切った。国内には良将がなく、国外には多くの敵国がある。それを憂いているのだ。」
白起は范睢と対立していました。今、秦王はその白起を想っています。范睢はますます恐れて意見を出せませんでした。
蔡沢は秦昭王に謁見するふりをし、人を使って范睢にこう宣伝させました「燕の客・蔡沢は天下における雄辯の士です。彼が王に会ったらあなたを追いつめてあなたの位を奪うでしょう。」
怒った范睢は部下を送って蔡沢を招きました。
范睢に会った蔡沢はわざと驕慢な態度をとりました。范睢はますます不快になり、蔡沢に問いました「子(汝)はしばしばわしに代わって秦の相になると言っているそうだが、意見を述べてみよ。」
蔡沢が言いました「あなたの判断はなぜこのように遅いのでしょう。四時(四季)には序(秩序)があり、功を成したら去るものです(春に生まれ、夏に成長し、秋に実を結び、冬になったら収穫されます)。あなたは秦の商君(商鞅)、楚の呉起、越の大夫・種を知らないのですか。なぜ彼等と同じようになろうとするのですか。」
范睢が言いました「なぜそれがいけないのだ。三子は義の至、忠の尽である。君子はたとえ身を殺されても名を成すことができれば死んでも恨まないものだ。」
蔡沢が言いました「人は功を立てて成全(天寿を全うすること)を求めるものです。身と名のどちらも全うできれば上です。名を残して身が死ぬのは次です。名が辱められて身を全うするのは下です。商君、呉起、大夫・種は人の臣として忠を尽くし功を成しました。これは人が望むことです。しかし閎夭や周公も忠を尽くした聖人です。人は三子のようになりたいと思いますが、閎夭や周公には劣ります。」
范睢は「その通りだ(善)」と言いました。
蔡沢が続けました「あなたの主は、旧故を厚く想って功臣を裏切らないという点において、孝公、楚王、越王と較べてどうですか?」
范睢が言いました「それはわからない。」
蔡沢が言いました「それでは、あなたの功は三子と較べてどうですか?」
范睢は「三子に及ばない」と答えました
蔡沢が言いました「それなのにあなたが身を退けなかったら、三子よりも大きな禍患が訪れるでしょう。『日は昇ったら傾き、月は満ちたら欠ける(日中則移,月満則虧)』と言います。進退嬴縮(五星が早く出ることを「嬴」、遅く出ることを「縮」といいます)は時と共に変化するのであり、これをわきまえるのが聖人の道です。今、あなたは既に怨に報い、徳にも応えました(魏斉を殺した事と王稽、鄭安平を推挙した事を指します)。あなたは意を達したのに変化の計を持っていないので、あなたに代わって危険を心配しています。」
范睢は蔡沢を上客にして王に推挙しました。
蔡沢と語った王も悦び、蔡沢を客卿にします。
この後、范睢は病と称して相の職を去りました。
王は蔡沢を相国に任命します。
しかし蔡沢も数カ月で相を免じられました。
また、范睢の名と死に関しても別の場所で書きます。
[二] 楚の春申君・黄歇が荀卿を蘭陵令にしました。
荀卿は趙人で、名を況といい、通常は荀子とよばれています。「卿」は尊称です。
斉は荀子を前後して三回、祭酒にしました。祭酒というのは、本来、宴席の前に行われる、酒を供えて地を祭る儀式を指しました。この儀式は最も尊敬されている年長者が主宰したため、その人も祭酒とよばれるようになります。その後、広く長官を意味する言葉となり、官名にも使われるようになりました。荀子が三回勤めた「祭酒」というのは、「諸学者の長」という意味に近いと思われます。
荀子の経歴に関しては、銭穆の『先秦諸子系年考辦』(民国時代)に『荀卿斉襄王時為稷下祭酒考(百四十三)』という文章があり、荀子は斉の稷下(斉で盛んだった学者の集り)で最も優秀だったため、祭酒を三回勤めたとしています。また、五十歳で遊学したというのは十五歳の誤りと指摘し、こう書いています「荀卿は十五歳で遊学して斉に来た。その後、燕に行って燕王・噲に会ったが、燕王・噲が用いなかったため、再び斉に行った。そこで稷下の列大夫になった。(略)その後、楚に行き(略)、六十歳を越えた頃、楚から斉に帰った。」
銭穆は荀子が楚から斉に帰ったのを斉襄王時代の事とし、襄王六年から十九年の間に三回祭酒を勤めたと解説しています。
『荀卿列伝』に戻ります。
楚の春申君が荀子を蘭陵令に任命しました。
まず孔子は「仁」を説きました。「仁」は「愛」に置き換えることができます。人間関係を維持するために必要な感情ともいえます。君臣間の愛、夫婦間の愛、親子間の愛、兄弟間の愛等、それぞれの立場、状況によって異なる愛の形が存在し、それを守ることで社会の秩序が維持される、という考えです。
孟子はこうした道徳観を成り立たせるために教育を重視しました。孟子の根底には「性善説」があります。「人は生まれた時は皆、同じように善い本性を持っているが、成長の過程において善悪が分かれる。善の本性が悪に変わることがないように、幼い頃から『仁義』を教育して道徳観を育てる必要がある」というのが孟子の考えです。
これに対して荀子は「性悪説」を説きました。「人の本性とはもともと悪であり、それを制御するためには道徳教育だけでは不十分だ。社会が明確な規則、約束事を作り、人々はそれを共有する必要がある」という考えです。
そこで荀子は「仁」「義」から更に発展させて、民衆に対して強制的な拘束力を持つ「法」の重要さを主張しました。
但し、「法」だけを重視したら国民は統治者についてきません。そこで伝統的な「礼(社会的な道徳とそこから生まれる礼義作法。人間関係における規則)」の大切さも説きました。
荀子は人間社会のつながりにおいてはまず「礼」があり、それを助けるために「法」が必要だと言っています。これを「隆礼重法」といいます。「法律」「刑罰」を最重視した法家と決定的に異なる部分です。
戦国時代 荀子(一)
戦国時代 荀子(二)
[三] 燕孝王が在位三年で死に、子の喜が立ちました。王喜は燕国最後の王になります。
この年、西周の民が東周に逃げました。秦民になることを願わなかったためです。
これは『史記・秦本紀』『資治通鑑』の記述で、『周本紀』は前年に書いています。また、『周本紀』の注(索隠)によるとこの西周君は武公の太子・文公です。かつて武公は公子・咎を太子に立てました(東周赧王冒頭参照)。恐らくこれが西周文公です。
[五] 楚王が魯頃公を莒に遷してその地を奪いました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記・六国年表』の「楚が魯を取り、魯君を莒に封じた」という内容が元になっています。但し、『魯周公世家』『楚世家』にはこの記述がありません(東周赧王五十九年・前256年参照)。
次回に続きます。