戦国時代 荀子(一)

本編で荀子が登場しました。

戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年

ここで『資治通鑑』の内容を紹介します。二回に分けます。
 
かつて趙孝成王の前で荀子と臨武君が兵について論じました。
王が用兵の要を問うと、臨武君が言いました「上は天の時を、下は地の利を得て、敵の変動を観察し、後から発しても先に到着すること、これが用兵の要術です。」
荀卿が言いました「それは違います。臣が聞いた古の道では、用兵攻戦の本(根本)は民を統一することにあります。弓矢が不調なら羿(古代の弓の名手)でも命中できません。六馬が不和なら造父西周穆王の御者)でも遠くまで至ることはできません。士民が親附しなければ、湯商王朝の成湯と西周の武王)でも必勝を得ることはできません。だから民を善く帰服させる者が、用兵を善くする者となるのです。兵の要術とは、民を帰服させることにあります。」
臨武君が言いました「違います。兵が貴ぶのは(用兵で大切なのは)情勢に利があることであり、行動に変詐があることです。用兵を善くする者は行動が迅速で姿が見えず、どこから現れたのかも分かりません。孫子呉子もこのようだったので天下に敵がいませんでした。なぜ民の帰服を待たなければならないのですか。」
荀卿が言いました「臣が言う道とは仁人の兵(仁人が兵を用いる道理)であり、王者の志です。あなたが貴ぶのは権謀勢利です。仁人の兵は詐術を行いません。詐術によって対することができるのは、怠慢な者、露袒の者(裸の者。無防備な者)、君臣上下の間が乱れていて徳から離れている者です。よって桀に対して桀の詐術を用いるようなら、幸いにも功を立てることができるかもしれません。しかし桀の詐術によって堯に対したら、卵を石に投げつけ、沸き立った水を指でかき回すようなものであり、自ら水火に入って焼け死ぬか溺死するようなものです。仁人の兵は上下が一心で三軍が協力しています。臣下が国君に従い、下が上に従う様子は、子が父に仕え、弟が兄に仕え、手臂が頭目を守って胸腹を覆うようなものです。(このような兵に対しては)詐術によって襲うのも、先に驚かして後に撃つのも同じ事です(何をやっても同じです。詐術は効果がありません)。仁人とは十里の国を治めたら百里の地を聴き百里に耳目を及ぼし)百里の国を治めたら千里の地を聴き、千里の国を治めたら四海を聴き、聡明(耳目を正すこと)によって警戒し、衆を和して一つにするものです。仁人の兵は集まったら卒(百人の集団)となり、散ったら列(戦陣の列)となり、延びたら莫邪(呉の宝剣)の長刃のようになります。接した者は斬られ、その鋭さは莫邪の利鋒のようなので、当たった者は潰えます。陣を構えたら磐石のように安定し、ぶつかった者は角が折れて退却します。
暴国の君が誰を頼りにできるでしょう。暴君と共に存在しているのも民です(暴君も民を無視することはできません)。民が我々を愛す時には父母を愛すように愛し、椒蘭を好むように好みます。逆に上の者を嫌うようなら、灼黥(刑罰)のように嫌って仇讎のように憎みます。人の情とは、桀(跖は戦国時代の大盗賊。道理がない者の喩え)のような者であっても、自分が嫌う者に自分が好む者を害させないものです。これは他人の子や孫に彼等の父母を害させることができないのと同じです(よって、民が上の者を愛したら、上の者を害することはありません)(民が主を愛していれば)民は必ず詐術を報告するので、詐術を用いる隙がありません。だから仁人が政治を行えば、国は日々明らかになり、先に帰順した諸侯は安定し、遅れて来た者は危うくなり、敵対する者は削られ、逆らう者は亡ぼされるのです。『詩(商頌)』にこうあります『武王(成湯)が旗を立てて斧越を握れば、烈火のように勢いがあり、誰も止めることができない(武王載発,有虔秉鉞,如火烈烈,則莫我敢遏)。』まさにこのような状況です。」
孝成王と臨武君が言いました「素晴らしい(善)。それでは、王者の兵とはどのように道(敎令)を設けてどのように行動すればいいのですか?」
荀卿が言いました「国君が賢才なら国が治まり、国君に能力がなければ国は乱れます。礼を重んじて義を貴べば国が治まり、礼を簡単にして義を軽んじたら国が乱れます。国が治まれば強くなり、乱れれば弱くなります。これが強弱の本です。
上が尊敬されれば下を用いることができ、上が尊敬されなければ下を用いることはできません。下を用いることができれば強くなり、下を用いることができなければ弱くなります。士を好む者は強くなり、士を好まない者は弱くなります。民を愛す者は強くなり、民を愛さない者は弱くなります。政令に信がある者は強くなり、政令に信がない者は弱くなります。用兵を重視する者は強くなり、用兵を軽んじる者は弱くなります。権が一つから出る者は強くなり、権が二つから出る者は弱くなります。これが強弱の常です。
斉人は技擊(兵家の技巧)を重視して戦の技とし、一首を得た者に錙金(八両の金)を与えました。そこには本賞(戦勝による賞)がありません(首をとれば戦の勝敗に関係なく賞金を与えられました。逆に戦に勝っても首を取らなければ賞金はありません)。このような師は弱小の敵にはなんとか対抗できますが、堅強な大敵に対したらすぐ四散することになります。天を飛ぶ鳥と同じで、自由に飛ぶだけで秩序がありません。これは亡国の兵であり、これより弱い兵はなく、市で雇った者を使って戦うのと差がありません。
魏氏の武卒は度(基準)に則って選ばれています。三属の甲(上身髀褌脛繳。全身の甲冑)を身に着け、十二石の弩(一石は重さ百二十斤)を操り、五十本の矢を背負い、戈を身の上に置き、胄を被って剣を帯び、三日の食糧を携帯して一日に百里を走らせます。このような能力がある者には徭役を免じて田宅を与えています。しかし武卒の気力(体力)は数年で衰えるのに、与えた利を奪うことはできません。他の武卒を選び続けたらうまく回らなくなります。よって、たとえ魏の国土が広大だとしても税が不足することになります。これは国を危うくする兵です。
秦人は生民を陿隘(困窮)させ、その民を酷烈にしています(厳しい刑罰で治めています)。国君は権勢を用いて民を強制し、険阻な場所に民を隠し(敵に害させず)、慶賞(勝ったら賞を与えること)を習慣とし、負けたら刑罰を与えることで民を縛っています。このようであるので、民が上の者から利を得るためには戦うしかありません。功績と賞賜は同時に増え(功績が多ければ賞賜も増え)、五つの甲首を得たら五家を隷属させることができます。これは衆を強くして長久(安泰)とさせる道です。だから秦は四世(孝公文王悼武王昭襄王)にわたって勝ってきたのです。これは幸ではなく数(天数。必然な事)です。
斉の技擊は魏の武卒に対抗できず、魏の武卒は秦の鋭士に対抗できません。しかし秦の鋭士は斉桓公や晋文公の節制(規律正しい軍)に当たることができず、斉桓公や晋文公の節制は成湯や武王の仁義に当たることができません。もし遭遇したとしたら、焦熬(脆い物)を石に投げるようなものです。
これら数国は皆、賞を求めて利を追及する兵を養っています。それらの兵は傭徒(雇われた者)が利益のために力を尽くすのと同じです。上を貴んで甘んじて制度に従おうとする心はありません。もしも諸侯に節(仁義)を精尽する者がいたら、これらの数国を兼併して彼等(利のために戦う兵)を危地に追い込むことができるでしょう。
今の世は、広く士兵を集めて選び、勢(威勢)詐を尊び、功や利を重んじることが当たり前になってしまいました。しかし礼義敎化だけが士兵を斉(一心)にすることができます。詐によって詐に対したら幸いにも勝てるかもしれませんが、詐によって斉(一心になった軍)に遭ったら、錐刀で泰山に孔をあけるように無力です。成湯や武王が桀紂を誅殺した時は動じることなく指揮を執り、強暴な国も全て帰順して、獨夫(孤立した者)を誅殺するように桀紂を誅殺しました。『泰誓尚書』に『獨夫紂』とあるのはこのためです。兵が大斉(一心)であれば天下を制し、小斉であれば鄰敵を治めることができます。広くから集めて選び、勢詐を貴んで功利を重んじる兵は、勝敗が一定ではなく、ある時は縮小し、ある時は拡大し、あるいは存続し、あるいは滅亡し、雌雄(強弱)が定まりません。このような師は盗兵(盗賊の兵)といい、君子はあてにしないものです。」
 
 
 
次回に続きます。