戦国時代111 秦昭襄王(二) 趙・燕の戦い 前254~251年
今回は秦昭襄王五十三年から五十六年です。昭襄王の時代が終わります。
昭襄王五十三年
前254年 丁未
韓王が秦に入朝し、魏も国を挙げて秦の令を聴くことにしました。
しかし『六国年表』では前年に楚が魯頃公を莒に遷して魯の地を奪っています。楚が徐州を取ったのはもっと前の事かもしれません。
『六国年表』『楚世家』『資治通鑑』には楚が徐州を取ったという記述がありません。
翌年は秦昭襄王五十四年です。
昭襄王五十四年
前253年 戊申
[一] 秦王が雍の郊外で上帝を祀りました。天子の儀式です。
[二] 楚が陳から鉅陽に遷都しました。
東周赧王三十七年(前278年)に秦が楚都・郢を攻略したため、楚は陳に遷都しました。この年、更に東の鉅陽に遷都したようです。
翌年は秦昭襄王五十五年です。
昭襄王五十五年
前252年 己酉
[一] 衛懐君が魏を朝見しました。
しかし魏人は懐君を捕えて殺し、弟を立てました。これを元君といいます。元君は魏王の壻にあたるため、国君に選ばれました。
『資治通鑑』は元君を「懐君の弟」としていますが(上述)、『衛康叔世家』には「嗣君の弟」とあり、注(集解)が「懐君の弟」と訂正しています。嗣君は懐君の父で、在位年数は四十二年に及びました。懐君の在位年数も三十一年なので、併せて七十年以上になります。もしも新たに即位した元君が嗣君の弟だとしたら年をとりすぎているようです。
「邯鄲城下で秦に大勝した魏は(東周赧王五十八年・前257年)、勝利の余威に乗じて秦の陶郡と衛に進攻した。前254年、魏国は秦の陶郡を奪っただけでなく、衛国も滅亡させた(衛の滅亡は二年後の前252年)。
『史記』は衛国が魏に滅ぼされた事を書いていないが、『呂氏春秋・審応覧・応言篇』(「魏が陶を占領して衛を削り、方六百里の地を取った」)と『韓非子』の『飾邪篇』(「魏が数年で東に向かい、陶と衛を攻め尽した」)、『有度篇』(「陶と衛の地を攻め尽した」)、『五蠹篇』(「衛は魏から離れて連衡に参加したため、半年で滅ぼされた」)には魏が定陶(陶郡)を攻めた事と衛国を滅ぼした事が書かれている。
『史記・衛世家』は衛懐君三十一年に懐君が魏を朝見して殺されたと書いているが、衛懐君三十一年は魏安釐王二十五年(秦昭襄王五十五年・前252年。本年)に当たり、魏が懐君を殺したというのは魏が衛を滅ぼした事件を指す。
しかし司馬遷は恐らく魏が衛を滅ぼしたという事件を知らなかったため、魏が衛元君を立てたと書いている。
また、『衛世家』には『元君十四年に秦が初めて東郡を置き、衛(元君)を野王県に遷した』とあり(『六国年表』では元君十二年。秦王政六年・前241年参照)、その十一年後に元君が死んで子の角が即位するが(秦王政十七年・前230年参照)、これらの話も信用できない。
『秦始皇本紀』には『衛世家』と異なる記述があり、始皇六年(前241年)に『秦が衛を占領して東郡に迫った。衛君・角は支属を率いて野王に遷った』と書いている。ここから秦が野王に遷したのは衛君・角であって元君ではないことがわかる。
つまり、衛は魏によっていったん滅ぼされており、魏が立てたとされる元君という国君は存在せず、秦が改めて衛君・角という国君を立てたのである。
本年、衛は魏に背いて秦と連衡したため(『韓非子・五蠹篇』)魏に滅ぼされてしまった。後に秦が衛の故地を取ると、同盟国(連衡して滅ぼされた衛)に対する『興亡継絶(滅んだ国を復興させて途絶えた家系を継続させること)』の必要性から表面上は衛国を復国させ、実際には秦の附庸国にしたのである。」
翌年は秦昭襄王五十六年です。
昭襄王五十六年
前251年 庚戌
秋、秦昭襄王が死に、子の柱が即位しました。これを孝文王といいます。
昭襄王は唐太后と合葬されました。
韓王が衰絰(喪服)で秦に入り、祠(宗祠)で昭襄王を弔いました。諸侯も皆、将相を派遣して祠で弔問し、喪事に参加しました。
孝文王は罪人を釈放し、先王の功臣を重用し、親戚を厚遇して親しみ、苑囿の制限を解いて善政に励みました。
燕王は五百金を使って趙王を酒宴に招く準備をし、栗腹を相に任命して趙に派遣しました。
しかし栗腹は帰国してから燕王にこう報告しました「趙王の壮者は全て長平で死に、その孤児達もまだ成長していません。撃つべきです。」
燕王は昌国君・楽閒を招いて相談しました。
楽閒が言いました「趙は四戦の国(四方を強敵に囲まれた戦争が多い国。東は燕、西は秦、南は韓・魏、北は胡・貊と接しています)なので、その民は戦に慣れています。攻撃するべきではありません。」
燕王が言いました「わしは衆(多勢)によって寡(無勢)を撃つつもりだ。我が国の二人が趙の一人を相手にすればいいだろう。」
楽閒は「いけません」と言いました。
燕王が言いました「五人が一人を相手にすればいいだろう。」
楽閒はやはり「いけません」と言って出兵に反対します。
燕王が激怒したため、群臣が出兵に賛成しました。
こうして二軍が編成され、車二千乗が動員されることになりました。
栗腹が鄗を攻め、卿秦(卿が姓。または姓名を「爰秦」といい、卿は官名)が代を攻めました。
大夫・将渠(将が姓。または将は官名)が燕王に言いました「人(趙)と関を通じて交りを約束し、五百金を使って人の王を酒宴に招こうとしたのに、使者が戻って報告したら逆に攻め入るとは不祥なことです。師が功を立てることはできません。」
燕王は諫言を聞かず、自ら偏軍(一軍)を率いて出発しました。
将渠はあきらめず、燕王の綬(印璽の紐)を引いて「王は行ってはなりません。行っても功を成せません」と言いましたが、燕王は足で蹴って離しました。
将渠が泣いて言いました「臣は自分のためにこうするのではありません。王のためにこうするのです。」
燕軍が宋子(地名)に至りました。
趙は廉頗を将にして反撃します。栗腹は鄗で敗れ、卿秦と楽乗も代で敗れました。
『資治通鑑』胡三省注によると、楽乗は趙将なので「卿秦と楽乗も代で敗れた(敗卿秦、楽乗於代)」という部分は「楽乗が代で卿秦を破った(楽乗敗卿秦於代)」とするのが正しいようです(翌年、楽乗は趙で武襄君に封じられます)。
『燕召公世家』の注(『索隠』と『正義』)も『戦国策』から「廉頗が二十万の兵を率いて鄗で栗腹に遭い、楽乗が五万の兵を率いて代で慶秦に遭った。燕人は大敗した」という記述を引用しています。
但し、斉魯書社の『戦国策・燕策三』を見ると趙軍の兵数が異なり、「燕は六十万の兵を起こして趙を攻めた。栗腹が四十万を率いて鄗を攻め、慶秦が二十万を率いて代を攻めた。趙は廉頗に八万の兵を率いて鄗で栗腹に当たらせ、楽乗に五万の兵を率いて代で慶秦に当たらせた。燕人が大敗した」と書かれています。
『燕召公世家』『資治通鑑』『戦国策』にはありませんが、『趙世家』『六国年表』によると栗腹は戦死したようです。
また、『趙世家』は「卿秦、楽閒を捕虜にした」としていますが、楽閒は捕虜になったのではなく、趙に奔ったようです(下述)。
以下、『燕召公世家』と『資治通鑑』の記述です。
楽閒は趙に奔りました。
趙の廉頗軍は燕軍を五百余里追撃して燕都・薊を包囲します。
燕人が講和を求めると、趙人は「将渠に講和を主宰させろ」と要求しました。
燕王は将渠を相にして趙と和を結びます。
趙軍は包囲を解いて兵を還しました。
『趙世家』は趙の燕都包囲を翌年の事としています。
『廉頗列伝(巻八十一)』によると、燕は五城を割いて趙に和を請い、趙は同意しました。
この戦功によって、趙は廉頗に「尉文」を封じました。尉文は地名という説と、尉が官名、文が名という説があります。後者の場合は尉文の食邑を廉頗に封じたという意味になります。
廉頗は信平君と号しました。「篤信・平和」という意味です。
尚、『趙世家』は「相国・廉頗に尉文を封じた」としていますが、『廉頗列伝』はこの時に「廉頗を假相国に任命した(「相国」ではありません)」としています。「假(仮)」は「代理」の意味です(秦荘襄王元年・前249年に再述します)。
[四] 趙の平原君・趙勝が死にました。
次回に続きます。