戦国時代112 秦孝文王 魯仲連 前250年

今回は秦孝文王の時代です。一年で終わります。
 
孝文王
昭襄王の子で、名を柱といいます。
 
 
孝文王元年
250年 辛亥
 
[] 『史記秦本紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月(歳首)己亥(初四日)、秦孝文王が正式に即位しました。
 
孝文王は善政に勉めましたが、喪を解いて政治に臨んだ三日後(足掛け三日)の辛丑(初六日)に死んでしまいました。
昭襄王の在位年数が五十六年にわたったため、孝文王が即位した時には既に相当年をとっていたはずです。
 
太子の子楚が即位しました。これを荘襄王といいます。
史記秦本紀』の注(索隠)によると、荘襄王が即位した時の年齢は三十二歳です。
 
孝文王の正妻だった華陽夫人を華陽太后とし、荘襄王の実母夏姫が夏太后になりました。
資治通鑑』胡三省注に夏氏の解説があります。周王朝が夏后氏夏王朝の子孫)を杞国に封じ、その子孫の一部が夏を氏にしました。一説では陳の夏徵舒の後代ともいわれています。
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、趙の廉頗が燕を包囲しました(『資治通鑑』等では前年)
また、楽乗を武襄君に封じました。『正義』には「『襄』は『挙』『上』という意味」と解説されています。燕との戦いで楽乗が最上の功績を立てたことを表します(前年参照)
 
[] 燕将が斉の聊城を攻めて攻略しました。
しかしある人が燕王の前で燕将を讒言したため、燕将は帰国できなくなり、聊城を守りました。
 
斉の田単が聊城を攻めましたが、一年余経っても攻略できませんでした。
そこで魯仲連が書を矢につけて城中に射ました。そこにはこう書かれています「公のために計るとしたら、燕に帰らないのなら斉に帰順するしかありません。今、一人で孤城を守っていますが、斉兵は日々多くなっているのに、燕の援軍は来ません。どうするつもりですか?」
燕将は書を見てから三日間泣きましたが、決断できませんでした。燕に帰りたくても既に対立しています。斉に帰順したとしても、多くの斉人を殺したり捕虜にしてきたため、投降後に辱めを受けるかもしれません。
燕将は嘆息して「人に刃をかけられるくらいなら、自刃したほうがいい」と言い、自殺しました。
聊城は混乱に陥り、田単に攻略されます。
 
凱旋した田単は魯仲連の功績を報告し、爵位を与えようとしました。
しかし魯仲連は海上に逃げてこう言いました「富貴を得て人に屈するくらいなら、貧賎のまま軽世肆志(世俗を軽く見て自由に生きること)であった方がいい。」
 
ある日、魏安釐王が天下の高士について子順(孔斌)に問いました。
子順が言いました「この世にそのような人はいません。もし次(高士に順じる者)がいるとしたら、それは魯仲連でしょう。」
魏王が言いました「魯仲連は強作の者(無理にいい姿を作っている者)であり、本性によって自然にできているわけではない。」
子順が言いました「人は皆、姿を作っています。作って止めることがなければ(作り続ければ)君子になれます。作り続けて変わることがなければ、作った姿が本性と一体になり、それが自然になります。」
 
 
 
次回に続きます。

戦国時代113 秦荘襄王(一) 東周滅亡 前249~248年