戦国時代113 秦荘襄王(一) 東周滅亡 前249~248年

今回から秦荘襄王の時代です。
 
荘襄王は本名を異人といいますが、楚に改名しました。孝文王の中子です。
 
荘襄王元年
249年 壬子
 
[] 秦荘襄王が正式に即位しました。
史記秦本紀』によると、荘襄王も孝文王と同じように善政に勉めます。罪人を大赦し、先王の功臣を重用し、厚徳を骨肉(親族)に施して民に恩恵を与えました。
 
[] 秦が呂不韋を相国にしました。
荘襄王を孝文王の後継者にするために尽力したからです。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙の假相大将武襄君楽乗が燕を攻め、国都を囲みました。
 
史記・廉頗列伝(巻八十一)』は秦昭襄王五十六年(前251年)に「廉頗を假相国に任命した」としています(但し『趙世家』では「相国廉頗」と書かれています」)
今回、燕を攻めた楽乗は「假相」で、「假相国」の意味だと思うので、秦昭襄王五十六年に假相国に任命されたのは楽乗で、廉頗は相国になったのかもしれません。
 
[] 東周君と諸侯が秦討伐を謀りました。
秦王は相国呂不韋に東周を攻撃させます。
東周は敗れて滅亡し、東周君は陽人聚(地名)に遷されました。
 
東周の滅亡によって周の祭祀が完全に途絶えました
この時、東周にはわずか七邑しかありませんでした。河南、洛陽、穀城、平陰、偃師、鞏、緱氏です。
 
以上は『資治通鑑』の記述を元にしました。『史記秦本紀』には、「東周の地を占領した秦は、周の祭祀を途絶えさせず、陽人の地(陽人聚)を周君に下賜して祭祀を奉じさせた」とあります。
 
東周君は諡号等の詳細が分かりません。『史記周本紀』の注(索隠)には、「東周恵公(東周顕王二年367年参照)の子は武公といい、秦に滅ぼされた」とあります。しかし恵公が東周に封じられたのは百年以上も前のことなので、数代の抜けがあると思われます。
 
[] 秦が相国呂不韋を文信侯に封じ、河南と洛陽(東周七邑のうち二邑)の十万戸を与えました。
 
[] 秦の蒙驁が韓を攻め、成皋と滎陽を取りました。
以上は『資治通鑑』『史記六国年表』の記述です。『史記秦本紀』には「韓が成皋と鞏を献上した」と書かれています。
 
秦は旧周領と韓から得た地を併せて三川郡を置きました。
三川というのは黄河、洛水、伊水のことです。
秦の国境が魏都大梁に迫ります。
 
[] 『資治通鑑』はこの年に「楚が魯を滅ぼし、魯頃公を卞に遷して家人(庶民)に落とした」と書いています。
史記魯周公世家』には「魯頃公二十四年、楚考烈王が魯を滅ぼす。頃公は亡命して下邑(国外の小邑。または「卞邑(地名)」)に遷り、家人(庶民)となる。魯の祭祀が途絶える。頃公は柯で死ぬ。魯は周公から頃公まで三十四世」とあります。
 
楊寛の『戦国史』が魯滅亡の年を東周赧王五十九年(前256年)としていることは既に述べました。
 
『帝王世紀』は魯頃公の終わりの年を辛亥としています。恐らくこれは魯が滅んだ年ではなく、頃公が死んだ年で、秦孝文王元年(前250年。前年)に当たります。
『帝王世紀』が正しいとしたら、本年に魯が滅んだとする『史記六国年表』『資治通鑑』の記述は誤りになります。
 
[] 『史記田敬仲完世家』によると、この年、君王后(斉襄王の后。斉王建の母)が死にました。
 
 
 
翌年は秦荘襄王二年です。
 
荘襄王二年
248年 癸丑
 
[] 日食がありました。
 
これは『資治通鑑』と『史記六国年表』の記述で、『秦本紀』は翌年四月の事としています。しかし『秦本紀』は荘襄王の在位年数を四年としており(実際は三年です)荘襄王二年から四年の記述が混乱しています。恐らく『六国年表』と『資治通鑑』が正しいと思われます。
 
[] 『史記趙世家』によると、延陵鈞(詳細不明。延陵は地名なので、恐らく鈞が人名で、延陵は封邑の名。または邑名を元にした氏)が軍を率いて相国信平君・廉頗に従い、魏を助けて燕を攻めました。
 
[] 秦の蒙驁が趙を攻めて太原を平定し、楡次、新城、狼孟等三十七城を取りました。
これは『資治通鑑』『史記趙世家』『六国年表』の記述です。『史記秦本紀』は本年に蒙驁が太原平定のために出兵し、翌年に楡次、新城、狼孟等三十七城を取ったとしています。
 
[] 楚の出来事を『史記春申君列伝(巻七十八)』と『資治通鑑』からです。
楚の春申君黄歇が楚王に言いました「淮北の地は斉と接しており、急を要する場所です。郡を置くべきです。」
淮北十二県は元々春申君が食邑にしていました(東周赧王五十二年263年参照)。それを郡にするというのは、重要な地なので楚王が直接管理するということを意味します。邑は邑主が治めますが、郡は国主が直轄する地となります。
 
春申君は淮北十二郡を返上する代わりに、江東に封地を求めました。
楚王はこれに同意します。
春申君は江東に入ると呉の故墟に城を築いて都邑としました。その宮室は華美を極めました。
 
資治通鑑』胡三省注は「春申君が楚の相となってから、楚は弱くなり、秦が強くなった。国のために謀らず、(自分のために)都を築いて宮室を盛んにするとは、道から外れている」と批難しています。
 
 
 
次回に続きます。