戦国時代114 秦荘襄王(二) 信陵君と安陵君 前247年

今回で秦荘襄王の時代が終わります。
 
荘襄王三年
247年 甲寅
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が燕と領地を交換しました。趙は龍兌、汾門、臨乗を燕に譲り、燕は葛、武陽、平舒を趙に譲りました。
 
[] 『史記秦本紀』は本年に「秦の蒙驁が趙を攻めて楡次、新城、狼孟等三十七城を取った」としています(前年参照)
 
[] 秦の王齕が上党諸城を攻めて攻略しました。
 
上党はもともと韓の領土でしたが、東周赧王五十三年(前262年)に趙に降りました。その後、赧王五十五年(前260年)に秦が上党を攻略しました。
今回、秦がまた上党を攻めた原因を『史記秦本紀』の注(正義)は「上党が再び秦に反したため」と解説しています。
この時の上党がどこの国に属していたかは『秦本紀』『資治通鑑』とも明記していませんが、『韓世家』『六国年表』は「秦が韓の上党を攻略した」と書いています。
 
秦が太原郡を置きました。
太原は上党以北の地で、前年(または本年)に占領した楡次、新城、狼孟等三十七城が入ります。
資治通鑑』胡三省注は晋陽も秦に攻略されて太原郡に入れられたとしています(晋陽は楡次の西、狼孟の南に位置します)
 
[] 秦の蒙驁が魏を攻めて高都と汲を取りました。
魏軍が連敗したため、心配した魏王は人を送って趙の信陵君魏無忌を呼び戻そうとしました。
しかし信陵君は罪を恐れて帰ろうとせず(東周赧王五十八年・前257年参照)、門客にこう宣言しました「魏の使者と通じた者は死刑にする。」
賓客は帰国を進言しなくなりました。
そこで毛公と薛公が信陵君に会いに行ってこう言いました「公子が諸侯に重んじられているのは魏があるからです。しかし今、魏が危急の時なのに公子は心配もしません。一旦、秦人が大梁を攻略して先王の宗廟を破壊したら、公子はどの面目があって天下に立てるのですか。」
言い終わる前に信陵君は顔色を変えて車を準備し、魏に帰りました。
 
魏王は信陵君の手をとって泣き、上将軍に任命しました。
信陵君は諸侯に人を送って援軍を求めます。諸侯は信陵君が再び魏の将になったと聞き、次々に援軍を送りました。
信陵君は五国の兵を率いて河外黄河の西)で蒙驁と戦い、蒙驁は敗走しました。
信陵君は秦軍を函谷関まで追撃してから兵を還しました。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
史記秦本紀』の注(正義)は五国を「燕、趙、韓、楚、魏」としています。
また、『秦本紀』は「魏将無忌が五国の兵を率いて秦を撃ったため、秦は河外まで退却した。蒙驁は敗戦し、陣を解いて去った(原文「蒙驁敗,解而去」。別の解釈では、「蒙驁が敗れ、諸侯は秦軍の包囲を解いて撤兵した」)」と書いています。
 
[] 『史記魏世家』によると、この頃、魏の太子増が人質として秦にいました。魏が五国の兵を率いて秦と戦ったため、秦は怒って魏の太子増を捕えようとします。
するとある人が太子増を助けるために秦王に言いました「公孫喜は以前から魏の相にこう言っていました『魏の兵を使って速く秦を攻撃するべきです。そうすれば秦王が怒って増を捕えるので、魏王もますます怒って更に秦を攻めます。その結果、秦は必ず増を傷つけます。』今、王は増を捕えようとしていますが、これでは喜の計にはまることになります。増を尊重して魏と同盟し、斉と韓に魏を疑わせるべきです。」
秦王は諫言に従いました。
 
史記魏世家』の注(索隠)は「『戦国策』では、秦王に諫言したのは蘇秦。公孫喜は公孫衍」と注記していますが、『戦国策』のどの篇にあるのか探し出しませんでした。二人が蘇秦と公孫衍だとしたら、もっと以前の出来事になるのではないかと思われます。
 
[] 安陵の人縮高の子が秦に仕えていました。安陵は魏の安陵君の封地です。
秦は縮高の子に管(地名)を守らせました。
魏の信陵君が管を攻撃しましたが、攻略できませんでした。そこで安陵君に人を送ってこう伝えました「縮高を渡せば彼を五大夫に封じて執節尉に任命しよう。」
縮高を使って子に投降を勧めるつもりです。
安陵君が答えました「安陵は小国です。民に強制することはできません。使者が自ら訪ねてください。」
安陵君は官吏に命じて使者を縮高の家に案内させました。
使者が信陵君の命を告げると、縮高はこう言いました「信陵君が高(私)を重んじるのは、高に管を攻めさせたいからです。しかし、父が攻めて子が守るようでは人に笑われます。もし我が子が臣(父)を見て降るようなら、父が子に主を裏切らせたことになります。父が子に裏切りを教えるのは、信陵君が好むことではありません。よって命を受けることはできません。」
使者が帰って信陵君に報告すると、信陵君は激怒して安陵君にこう伝えました「安陵の地も魏の一部だ(『資治通鑑』胡三省注によると、安陵は魏の地で、魏襄王が弟を封じました)。今、管を攻めても攻略できず、もし秦兵が魏に来たら社稷が危うくなる。縮高を生きたまま縛ってここに送れ。もしも彼を送ってこなかったら、無忌は十万の師を発して安陵の城下に迫ろう。」
安陵君が答えました「私の先君成侯は襄王の詔を受けてこの城を守ることになり、太府(書籍を保管する府)の憲(法)をいただきました。憲にはこうあります『臣が君を殺し、子が父を殺したら、常法によって裁かれ、赦すことはない。国に大赦があっても、城を挙げて降った者と敵前から逃亡した者は赦されることがない。』今、縮高は大位爵位・官職)を辞退して父子の義を全うしようとしているのに、あなたは『生きたまま送れ』と命じました。これは私に襄王の詔を裏切らせ、太府の憲を廃させることになります。たとえ死んでも実行できません。」
これを聞いた縮高が言いました「信陵君の為人は悍猛(凶暴)かつ自用(誇り高く驕っていること)なので、この返事が届いたら国(安陵)の禍となるだろう。私は既に自分を全うし、人臣の義を違えなかった。我が君(安陵君)に魏患(魏国がもたらす禍)を受けさせてはならない。」
縮高は使者の館舍に行って自刎しました。
使者の報告を聞いた信陵君は、素服(白服。喪服)を着て舎を避け(「縞素辟舍」。舎を避けるとは、寝室を避けて生活するという意味で、哀惜を表します)、使者を送って安陵君にこう伝えました「無忌は小人なので思慮が窮して失言しました。再拝して謝罪します。」
 
[] 秦王が魏王と信陵君の関係を悪化させるため、万金を準備して人を送りました。以下、『史記信陵君(魏公子)列伝(巻七十七)』と『資治通鑑』からです。
秦王が秦人に金万斤を持たせて魏に送りました。
秦人は信陵君に殺された晋鄙(東周赧王五十七年・前258年参照)の門客を探し出して魏王にこう言わせました「公子(信陵君)は国外に十年も亡命していましたが、今、再び将となり、諸侯が皆属しています。天下は魏公子の名を知っていても、魏王の存在を聞いたことがありません。しかも公子はこの機を利用し、南面して王になろうとしています。諸侯も公子の威を恐れているので、共に公子擁立を欲しています。」
同時に秦王は頻繁に人を送って信陵君を祝賀し、「まだ魏王になれませんか」と問いました。
魏王は日々讒言を聞いているうちに信じるようになり、信陵君が指揮する軍を他の者に委ねました。
信陵君は讒言によって廃されたと知り、病と称して入朝しなくなります。
この後、信陵君は日夜、酒色に溺れ、四年後に死にました(秦王政四年243年)
 
信陵君が死んだ時、韓王が弔問に行きました。信陵君の子はこれを栄誉と思って子順(孔斌)に話しました。
しかし子順はこう言いました「礼に則って辞退するべきです。『鄰国の君が弔問したら国君が主となる(隣国の国君が弔問したら、受け入れる側も国君が葬儀を主宰する)』というのが礼です。しかし今、国君は子(あなた)に命じていません(国君が信陵君の葬儀を主宰するという命は下されていません)。よって、子(あなた)は韓君の弔問を受けるべきではありません。」
信陵君の子は韓王の弔問を辞退しました。
 
[] 『史記秦本紀』はこの年四月に日食があったとしていますが、恐らく前年の誤りです。
 
[] 五月丙午(二十六日)、秦荘襄王が死にました。
太子(後の始皇帝が即位します。まだ十三歳だったため、国事は全て文信侯呂不韋が決定しました。呂不韋は仲父と号されます。
以上は『資治通鑑』の内容です。
 
史記秦始皇本紀』には、秦王政の即位後に呂不韋を相とし、十万戸に封じて文信侯と号したとありますが、秦荘襄王元年(前249年)にも同じ記述がありました(『資治通鑑』『史記呂不韋列伝』)。秦王政が即位してから改めてその地位を確認したということだと思います。
また、『秦始皇本紀』は「即位したばかりでまだ若い秦王政は大臣に政治を委ねた」としていますが、この「大臣」を『資治通鑑』は「呂不韋」に置き換えています。
 
呂不韋列伝(巻八十五)』によると、秦の政権を握った呂不韋は万人の家僮(使用人。奴僕)を擁しました。
当時、秦王がまだ幼かったため、太后となった秦王の母(趙姫)はしばしば呂不韋と私通しました。
 
以下、『秦始皇本紀』の記述を続けます。
当時の秦の地は既に巴、蜀、漢中を兼併し、宛を越えて郢を有し、南郡を置きました。北は上郡以東を収めて河東、太原、上党郡を有し、東は滎陽を有し、二周を滅ぼして三川郡を置きました。
 
秦王政は天下統一を目標にして賓客游士を招きました。
李斯を舍人(『史記集解』によると厩内を主管する小吏の官名。または待従の賓客)とし、蒙驁(『索隠』によると斉人)、王齮(または「王齕」)、麃公(『集解』によると麃は秦の邑。『索隱』は「麃邑公が正しく、姓名は伝わっていない」としています)等を将軍にしました。
 
[] 『史記楚世家』によると、楚王が春申君黄歇を秦に送って祠(宗祠)で弔問しました。
 
[十一] この年、秦が太原郡を置きましたが(上述)荘襄王の喪に乗じて晋陽が叛しました。
 
 
 
次回に続きます。

戦国時代115 秦王政(一) 趙の李牧 前246~244年