戦国時代118 秦王政(四) 嫪毐の乱 前238年(1)
今回は秦王政九年です。二回に分けます。
秦王政九年
前238年 癸亥
[三] 夏四月、寒冷のため、秦の民に凍死者が出ました。
[四] 秦王が雍に泊まりました。
[五] 己酉(二十四日)、秦王・政が冠礼を行い、剣を帯びました。
通常は二十歳で冠礼を行うものですが、秦王は既に二十二歳でした。
[六] 秦の楊端和が魏を攻めて衍氏(魏邑の名)を取りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、西周宣王の子・尚父が幽王に諸楊という邑を与えられ、楊侯と号しました。後に晋に併合され、子孫が楊を氏にしました。また、晋の大夫・楊食我が楊氏を食邑にしたため、その子孫が邑名を氏にしました。
秦王の左右にかつて嫪毐と争った男がいました。その男が秦王にこう訴えました「嫪毐は宦者ではありません。しばしば太后と私乱し、二人の子が生まれました。この二人は隠されており、嫪毐は太后と謀って『王が薨じたら(死んだら)この子を跡継ぎにしよう』と言っています。」
当時の事が『説宛・正諫』に詳しく書かれています。嫪毐は国事を専らにし、ますます驕奢になりました。ある時、秦王の侍中や近臣、貴臣と博飲(博打と飲酒)し、酒に酔って言い争いになりました。すると嫪毐が目を見開いてこう怒鳴りました「わしは皇帝(この時はまだ秦王ですが、原文のままにしておきます)の假父(仮の父)だ。窭人子(貧しくて賎しい者)がわしに逆らうのか!」
嫪毐と争った者はすぐにこの事を秦王に報告しました。
秦王は官吏に嫪毐の調査を命じました。
それを知った秦王は相国の昌平君と昌文君に討伐を命じました。どちらも名が伝わっていません。『秦始皇本紀』の注(索隠)によると昌平君は楚の公子のようです。
昌平君と昌文君は兵を発して咸陽で嫪毐と戦い、数百人を斬首しました。嫪毐等は逃走します。
また、国中に「毐を生きて得た者には銭百万を下賜し、殺した者には銭五十万を下賜する」と令を出しました。
嫪毐等は全て捕えられます。
嫪毐に与した者も車裂の刑に処され、宗族が滅ぼされました。
衛尉・竭、内史・肆、佐弋・竭、中大夫令・斉等二十人も梟首(斬首して首を晒される刑)にされました。
秦王を諫めた二十七人が処刑されました。
秦王が使者を送って茅焦に伝えました「汝は闕下に積まれた者を見なかったのか?」
茅焦が使者に言いました「臣は天に二十八宿(角・亢・氐・房・心・尾・箕・斗・牛・女・虚・危・室・壁・奎・婁・胃・昴・畢・觜・参・井・鬼・柳・星・張・翼・軫)があると聞いています。今、既に二十七人が死にました。臣が来たのはその数を満たしたいからです。臣は死を恐れる者ではありません。」
使者が戻って報告しました。茅焦の邑子(同邑の若者)は禍を恐れ、衣物をまとめて逃走してしまいました。
激怒した秦王は剣に手をかけて座ると、口から唾を飛ばしながら怒鳴って言いました「その者は敢えてわしに逆らいに来たのか!速く鑊(大鍋)を準備して煮殺せ。厥下に積んでやることはない(二十八人を満たして彼を満足させる必要はない)。」
使者が茅焦を招きました。茅焦はゆっくり前に進み、再拝してから立ち上がって言いました「生きている者は死を語ることを避けず、国がある者は滅亡を語ることを避けないといいます。死を語ることを避けたら生を得ることができず、滅亡を語ることを避けたら存続を得ることはできません。死生存亡とは、聖主も急いで知りたいと思っていることです。陛下は聞きたくありませんか。」
秦王は「話してみろ」と言いました。
茅焦が語りました「陛下には狂悖(道理から外れたこと)の行いがあることを知らないのですか。假父(嫪毐)を車裂し、二弟を囊撲(袋に入れて殴り殺すこと)し、母を雍に遷し、諫士を惨殺しました。桀・紂の行いもこれには及びません。もし天下がこれを聞いたらことごとく瓦解し、秦に向かう者がいなくなるでしょう。臣は陛下に代わって危難を心配しています。臣が語るべきことはこれだけです。」
茅焦は服を脱いで刑具の上に伏せました。
秦王は殿を降りて自ら茅焦を抱え起こし、「先生、服を着てください。教えに従います」と言いました。
茅焦は上卿の爵位が与えられます。
一行が咸陽から帰ってから、母子は以前のように関係を改善しました。
次回に続きます。